2024/11/26 10:00

久しぶりに姉と話している。家の事情もあって頻繁に会うからよく話す。
それにしてもお互い歳を取ったと思う。そういう時期がきている。
話さなければいけないことがたくさんあるから、これからのことを話す。
でも最近は他愛もないことも話せるようになったから話すようになれた。
二人だけで話すなんて何年前か覚えていないほどに久しぶりに話している。
以前は唯一、車酔いをした姉が運転する車にも乗るけれど今は酔わない。
そんなことを考えながら、二人が通った小学校の近くにあった洋菓子店、
跡形もなくなって新しい無機質なプレハブ小屋を車中から少し寂しく眺めていた。
その日も用事を済ませて新幹線駅まで送ってくれている姉が車中で切り出した。
「フランスベーカリーのエクレア、覚えてる?」
「あー、美味しかったよね、あのエクレア。あのプレハブ小屋は何になるのかな?」
「なんか建設関係の会社の倉庫みたいなものにするらしいよ。」
「そうなんだ。でも廃墟みたいになってたから、きれいになっただけで良かったね。」
「そうだね。この前ね、エクレアを頂いて食べたら、あれ?この味?って思い出して、
聞いてみたらフランスベーカリーのお孫さんがあのエクレアを再現して、
それだけを売るお店を開いているらしいよ。場所はわからないけど…、今度聞いておくね。」
「エクレアだけって…、カッコ良いね、それ。この町の人には思い出の味なのかもね。」
近所で唯一、当時の地元の町でも数少ない洋菓子店「フランスベーカリー」
あまり洋菓子を買うことのなかった当時、ごちそうだったエクレア。
自分が今でもエクレア好きなのは、あのエクレアがあったからだと思う。
そのエクレアを思い出の味としている人たちがたくさんいたことはうれしいし、
その声に応えて地元で復活させた人(しかも孫!)がいることがうれしい。
少なくとも45年前にはそこにあったフランスベーカリーのエクレアを
また、地元で食べられていることが素晴らしいし、是非また食べたいと思う。
その味の記憶だけで勝負していることがカッコ良いと思うし、羨ましくも思う。
五感のなかでも特に大切だと思う味覚、記憶に刷り込まれているほどの味。
自分はその味わいを演出するすべての事柄も含めた時間を提供しているけれど、
その時間の中心にあるのは直接訴えかける味であることは間違いなく、
年月が経つことによる美化も多少あるかもしれないけれど、そうでありたい。
この手がいつまでも、衰えることなく生み出すことが出来れば、こんなうれしいことはなく、
そのためには、自分で美化することなく退化することは決してなく、
老化する心身を少しずつでも年齢に応じて進化させていきたい。
そんなことを考えながら、駆け足のように滞在した地元の町をあとにした。
自分にとっての味の記憶、エクレアをはじめとして、数え上げたらキリがない。
母親が作り置きしていた野沢菜の古漬け(樽底近くの!)の油炒め。
肥満気味だった子供の頃は何杯もご飯をおかわりすることになった食卓の一品。
当然、今となっては漬物を作らないので古漬けもないから食べることは出来ない。
何度か他の野沢菜の油炒めを試したけれど、合致しないから食べることもなくなった。
酒の席では地元の焼鳥屋で一本では足りずに二本頼んでいたレバー焼き。
(この話はこちらから→ 巨人ファンだったことを思い出した36年目に)
上京して渋谷の街で生きていた頃、文化村通りの雑居ビルの地下にあった居酒屋、
確か店名は「かに谷」でランチタイム営業で提供していた、たらこ定食。
あまりに通うものだから、店のオバチャンが「今日は生?半焼き?よく焼き?」
注文する前からそう訊かれていたほど、昼御飯の定番だった、
ひと腹分の大きなタラコとどんぶりご飯と味噌汁、漬物の一品。
堪らなく美味しかったその定食も、今では店がないから食べられない。
新橋駅ガード下の立食いそば屋「ポンヌッフ」の春菊天そば。
これがはじまりで苦手だった春菊の天ぷらが好物になったほとによく食べた。
何故、苦手な春菊天をはじめに食べたのかは記憶にないけれど、とにかく旨かった。
街の変貌にあわせて美化されたガード下には、もちろん店がない。
今に直接結び付いているものはホテルオークラで飲んだマンハッタン。
この仕事をはじめたばかりのまだ若造の頃に任された海辺の町の小さな酒場。
その酒場の主と訪れた夕暮れのラウンジバーで、後の師でもあり、
アニキ分となるバーテンダーが目の前で作ってくれたマンハッタンカクテル。
その所作すべてが美しく、美味しく、感動すらしたその味を越えたい、
だから本気で生業として生きていく、そう決めた一品。
夕暮れと葉巻の香りとマンハッタン、今でも鮮明に記憶しているあの時間。
けれど今はないし、いない。
今、自分が作るジンリッキーを自身のバロメーターにしている人がいたり、
これこれ、と言いながら、うれしそうにジントニックを飲む人がいたり、
十年ぶりの再会のマティーニを良い歳を取ったと誉めてくれた人もいた。
それぞれに、何処かの記憶に残っているのかもしれないけれど、
それに溺れることなく、驕ることなく、まだまだ!と思っていたいし、実際にそうだと思う。
自分自身が記憶に残ることよりも、記憶に刷り込まれた味とその時間。
そうなることが出来る一杯でありたい。
気忙しい日曜日を終えた月曜日にはもちろん、エクレアを街のスーパーで買った。
少し寂しく感じた。
令和六年 月曜日にはエクレアを
栗岩稔