2026/09/22 10:00


例年の秋雨前線に加えて台風や熱帯低気圧の湿った空気が流れ込んで

線状降水帯が出来て雨が続いて、秋の長雨なんて言葉では言い表せないほどの豪雨で、
雨の期間が長く続いて、10日間で4時間にも満たない日照時間だったり、
もう何が何だかわからない気象が続いている地域があちこちに広がっていて
天変地異が始まっているんじゃないかと思ってしまったりしているけれど、
こんな雨のなかでも歩いて行けるから当然のように仕事に行くし、
酒場はどんな時でも開いているべしと常日頃考えているから当然開けている。

そんななかでも訪れてくれる皆さまに感謝しながら雨夜の酒場を終えての道すがら、
都会らしく、たくさんのコンビニエンスストアが開いている様子に安心するし、
激しい雨で誰一人歩いていない中で店内にもいないのに開けてくれているし、
翌日の営業に向けて品出しをしながら、なかには酔客に日本語で捲し立てられながら、
きちんと対応している外国人スタッフの様子に日本人として恥ずかしく思うし、
異国の地で慣れない習慣や言葉でも働いていることに頭が下がる思いでいる。
けれど、大きな地震や都市型豪雨が襲ったら生命を守る行動をして欲しいと思う。
まあでも、自分のように今すぐに起きないだろうなとか思ったりもしているのかなとか、
お店自体がそこで煌々と明かりを灯していて月夜の提灯のように思ったりすることもあるけれど、
やっぱりそこには人がいて国内外問わず生命ある人がいるのだから必要な場所であって、
開けてくれていることに自分のような酒ナシの深夜の帰宅客にもとても助かっている。

そんなコンビニエンスストアの前で雨の夜、降っていても止んでいても、
とても気にかかることがある。それも随分前からずっと変わらずの雨夜の光景。
深夜の店内にはほぼ誰もいないことが多く、いても数人、数えるほどしかいないのに、
入口の傘立てには傘がとても多く、数本から時には10本もあることがあって、
それが壊れたモノからきれいなモノ、買ったばかりと思われるモノまで刺さっている。
到底店内の人の数とは合わないから誰かが放置していったモノだとわかる傘、
特にビニール傘が多く、造形物のように刺さっていて、上手に写真に収めれば
都会の夜景的な作品になるのかもしれないけれど、とても無残な姿でそこにある。
そんな光景にいつも何だかなと思いながら、最近は敢えて数えてみたりしている。

安価でどこでも手に入るようになったビニールや化学繊維素材のきれいな傘だけれど、
そんなに無駄にして良いものなのかなと思っている透明のビニール傘、
それが日本の発明品で、古くは江戸幕府御用納めの雨具一式の問屋が前身の会社が
太平洋戦争後の国内で主流だった綿製の傘が色落ちや移染、衣服を汚すなどから
進駐軍が使っていた塩化ビニール製のテーブルクロスに着目して、
その素材で傘カバーを発明して急速に広まり、その後にナイロンやポリエステル製の傘が登場、
傘カバーの必要性が少なくなり、需要が減ったことにより発想を転換、
塩化ビニールそのものを傘の骨に直接張るタイプの世界初のビニール傘が世に出た。
けれどまだ普及には至らず、1964年の東京オリンピックで来日していた
アメリカ人バイヤーの目に留まり、それまでは乳白色だったものを透明にしてアメリカで発売。
それがニューヨークで大ヒットして初めてファッションアイテムとして日本に逆輸入、
そうしてようやく急速に普及したもので、何だか長年かけて開発されたモノなのに、
外部からの目で気付かされるという、どこかで耳にしたことのある話だけれど、
今でも開発した会社はもちろん健在で国産で作り続けているけれど、
海外生産のとても安価なモノが多数を占めていて、ほぼ使い捨てのように感じるビニール傘。
ビニール傘だけでなく傘そのものの扱いも軽々しく扱われているように感じている。

駅の上り階段で横向きに持つ危険人物、濡れたままに車内や室内で持つ自己中心人物。
折れたり、反り返ったり、骨から外れたりしたままにうちすてる誰か。
傘に感情があったらどう思うだろうと思うし、ドラえもんにそんな話があったことも思い出す。
何だかとても切なく感じるし、情けないし町に愛情がないとも思っている。
まさに無用の長物になってしまっているように思うし、そんなものなのかな、
もったいないとかモノに対する愛情とかないのかな、とか思う。
幸いこの酒場を訪れる皆さまにはそんな人はいないことは傘立てを見てもわかる。
先日、訪れた英国人女性が帰る際「傘を忘れないで」と声をかけた。
彼女は力強く握り締めて「ありがとう、でも大丈夫、これは人生初の私の傘よ」
そう言いながら笑っていた様子がとても可愛らしく、さすがのお国柄だなと思った。

元来、雨の季節がある日本での今の傘はどんな立場で居場所があるんだろうかと思った。
もちろん大切にしている人が多数のなかで、まさしく無用の長物で自分のモノ、
持ち物のひとつではないように傘が邪魔モノのようにしている人を見かける。
そもそも無用の長物っていう言葉は仏教用語からでしょとか思いながら、
今の傘に転用するのもどうなのかなとか思ったりもしている。
その無用の長物は出家する修行僧は荷物の量が決まっていて、必要以上の荷物は、
それが欲望に繋がるということから、修行僧の持ち物は厳しく制限されていたからで、
長物の長は長いではなく超える意味を持つ長で、まあ必要でないから持たない、
そういうことなのかな、でも雨で必要だから持っていたんでしょ、とか思ってみたり、
折角買ったんだから置いていったり、放置したりすること自体どうかと思う。
行き当たりばったりの対応で傘を買うんだろうな、そういう人は、
天気予報とかその日の空模様とか気にならないないくらいに忙しいのかな、とか、
自分が直面することだけしか視界に入っていないのかな、とか考えてみたりする。

深夜のコンビニエンスストアの前を通るといつも「無用の長物」という言葉を思い出す。
やっぱり切なく悲しさすら感じる、降っていても止んでいてもの雨の夜。
放置する前提で購入して必要でなくなった場所に捨てるのだったら、
必要な人に渡すとか、そういう人に届くような仕組みが出来たら良いのにと思う。
けれど、そんな面倒なことをする人はいないのが、この世の中なんだろうし、
コンビニエンスストア側からしたら、管理なんか仕切れないから結局のところ
持ち主不特定のままで遺失物でその後に廃棄物になるんだろうけれど、
それもやっぱりお金がかかることだし、それはとても迷惑千万な出費なんだろな、
とかそんなことをふわふわと考えながら、雨の夜を歩いている。

この先、傘そのもののカタチがもっと進化したり、なくなって違うモノにに変わったり、
その有用性すら左右するほどの雨の量で用を足さないことにもなりかねないし、
雨だから外出禁止みたいなことにもなりかねないことになっていくのかもしれないし、
雨だけ考えてみても、この先どんな世の中になっていくんだろうと思ってみたりする。
好きだった雨がそもそものカタチを変えているように体感しているし、
気持ち悪い湿度や臨めない陽光に身体が自然に反応している自分が間違いなくいる。

先日、だいぶ久しぶりに青空が拝めて快晴でその青さを楽しめそうな朝を迎えた。
けれど、湿度100%というラジオの声に驚いたし、実際にその湿度を体感していた。
その心身の気だるさを振り払うように、久しぶりの青空散歩に出かけてみたものの、
気分が落ち着かず、読みかけの本も頁が進まず、結局は大人しく帰宅した朝だった。

昔は晴耕雨読が正しかったんだろうなとか思ってみたり、
古のハワイ、まだ大陸から侵略されていない頃の昔話のハメハメハ大王の子どもたちは、
朝日の後に起きて、夕日の前に寝て、雨が降ったらお休みするという童謡を思い出したり、
けれど、今の世の中、そんなことは到底出来ないものの人間本来の営みが
そこにあるような無いような、でもこれからどう生き残っていくんだろうか、とか、
時が過ぎたいつしかは人間は淘汰されるんだろうか、とか、そうして地球は守られるのかな、
地球そのものが終わりに向かっているのかなとか、色々なことを考えさせる雨の日々に。
あした天気になーれ、なんて当分言えそうにない、秋の長雨が長過ぎる日々に。

令和八年 秋の長雨という言葉を懐かしむこの頃
栗岩稔