2026/09/08 10:00


いつからそこにあったのかはわからない古いビルの地階に降りる。

日曜日ということもあってだろうけれど、灯りを消した店がほとんどで、
古さと風通しの悪い地下飲食街の空気が淀んだ気配のなかで、
唯一やっぱり空いている居酒屋の赤い提灯の灯りに安心しながら扉を開ける。
だいぶ賑わいのある店内から「いらっしゃいませー、おひとり?こちらでどうぞ!」
と元気に、だいぶ自分好みのゆるく湾曲したカウンターの端っこ、
しかも風通しの良い入口に一番近い席を確保するとすぐに目に入ってくる
「電車待ちセット/おつまみ三品と飲み物」という品書きの札。
準備された割り箸とよく冷えたおしぼりでは顔を拭きたい衝動を押さえながら、
おあつらえ向きの電車待ちセットを生ビールと共に注文して腰を落ち着かせる。

背後のテーブル席には何組かの団体客らしきおじさん、おばさんの賑わい、
カウンター席の三つ空けた右手には丸坊主で髭だけが白く目立つ初老の男性が
イヤホンをつけたままで一人座り、そば猪口の多分日本酒を口に含み、
つまみに箸を伸ばして口に入れて味わい、下を向いたままで唸っている。
イヤホンの音源なのか味わいになのかわからないけれど、とにかく唸っている。
酒の品揃えが豊富でつまみも郷土料理を取り揃えている店だから、
その味わいにだと信じたいけれど、とにかくいつも時には首を揺らしながら唸っている。

カウンター端っこには、電車待ちの時間に電車待ちセットを待つ、
長髪で髭だけが白く目立つおじさんが、電車の時間まで40分あることに喜んで、
その時間の猶予にもう一杯ともう一品いけるかもと考える頃に電車待ちセットが届く。
日替わりのおつまみ三品の並びに自分なりの順番を決めて、もう一度手を拭く。
よく冷えて程よい塩味と茹で加減の枝豆と生ビールをひとくちで小さな宴が始まる。
次と決めた〆さばの暑かったその日に嬉しい酢を効かせた味わいに生ビールが進む。
最後に控える子持ち昆布の煮しめの甘辛い味わいに口内をリセットして生ビールを飲み、
一通りの儀式のように味わいを確認して悦悦とした頃に右斜め後ろの扉が開く。

ひとつ空けて右隣の席にこんな店に来るとは思えない若い女性が座る。
まあ近頃は居酒屋ブームらしいし、ありなのかな、と興味津々のまま、
そのソフトドリンクらしき注文を残念に思いながら、目の前に目を移し、
生ビールとつまみひとくちという小ぢんまりとした酒の時間を楽しむ。
「はーい、おまちどうさま!」と置かれたグレープフルーツらしきドリンクに、
「あ、すみません、馬肉うどんをお願いします。」という注文に気持ちが上がり、
隣の女性が気づかせてくれた馬肉料理の品書きのなかに目当ての品を見つけ、
残ったビールの量とつまみ、残った時間をスマホで確認して益々気持ちが上向く。

その向こう側の相変わらず唸りながら酒を飲むおじさんの隣からの会話が耳に入る。
「いや、自分はこの街から出たことないですしね。まあでも出る気はないですし、
ここが好きですし、ここで良いかなーって思っているんっすよ。」
「そうかそうか、そうなんだね。自分なんかはさ、転勤が多かったから色々行ったね。
神戸、東京、仙台、高崎、東京とかね。でも良かったよ、どこもそれぞれに。」
「へぇ、そうだったんすっね。でも自分はここでいいっすね。」
とまだ社会人一年生ほどの若い男性とセンパイらしき男性が語る向こうには、
前回来た時にもそこにいたバンダナを頭に巻いた、よく日焼けした男性がいる。

その変わらない髭面にこのカウンター席のヒゲ率高いな、とか思いながら、
確か前回は青だったよなーバンダナの色、でもおんなじ席だなー、とか、
前回は隣でよくしゃべっていたけど、今回は離れていて良かったなー、とか
どうでも良い余計なことを考えていると、そのバンダナおじさんが語りだした。
「おい、青年、ここは確かに良いよな、そう良いんだよ、ここはな。」
と気持ちを後押しする熱い語りに、「そうっすよね。」と答える若い男性。
隣のセンパイの「ずっとここですか?」には「そう、オレはこの街が好きで
出たことはないしさ、この街で生きて死んでいくんだよなー、オレはさ。
で、日曜日はここ、ここに座って大将と話して酒を飲む、これが良いんだよ、オレはさ。」
「確かにそれはそれで良いかもしれませんね。自分は子どもの頃から転勤族だったから、
ふるさとみたいな気持ちがあまりなくて、でもそれはそれで楽しいことはありましたけど。」
「えっ、そうっすか?」「やっぱりさ、地方地方の食い物や酒を楽しめたしね。」
「そうなんでしょうね。でも自分はここの酒が一番っす。だからもう一杯行ってきます。」
そう席を立って酒が並ぶ棚の前で店長らしき男性に「うまいっすよね、ここの酒!」

カウンター真ん中のバンダナおじさん「やっぱりさ、人生はさ、ステージなんだよな、ステージ。
それぞれにさ。今だってここ、ここがみんなのステージなんだよ、そうだよな、大将。」
黙々と作業をしていた大将が手を止めて微笑みだけで返してその場を収め、
若い頃にバンドを組んでいたのかも、と想像出来るバンダナおじさんが「な、だろ。」
そのうちにテーブル席のこちらもおじさん二人の「ごちそうさん!」と声が響く。
「あー、うまかったよ。またこっちに来たら寄らせてもらうよ。ここの休みはいつだい?」
「年中無休でやらせてもらってますよ。大晦日も元旦もやってますよ。」と店長らしき男性。
「よく働くね。まあでもありがたいね、こっちは。いつでも寄れるしな。」
「いやいや、まあそうですね。またどうぞ。ありがとうございます。お帰り気をつけて。」

「ありがとさん。」確かに前回は周りがほとんど休みのなかでも提灯が点いていたなー。
そんなことを思いながら、残り時間と腹具合を確認しながらのウーロンハイと、
若い女性が気づかせてくれた地元特有の馬肉文化の代表格と言っても良いと思う、
馬のもつ煮込み「おたぐり」を注文すると、その気づかせてくれた若い女性は、
馬肉うどんを写真とお腹におさめて席立ち、後ろの団体客も後に続き、
皆が同じ電車待ちだったことを知り、自分は余裕の電車待ちおじさんなことに悦び、
目当ての「おたぐり」と酒を待つ、その向こうの唸りおじさんは次の酒に進み、
届いたばかりの揚げ豆腐にまた唸っている様子に、そうか次は揚げ豆腐かな、今は無理だけど。
次っていつだっけ、あー稲刈りの手伝いとお彼岸か、とか考えているうちに、
待望の「おたぐり」の香りに我に返り、姿勢を正して酒と肴に向き合う。
そのあっさりした臭みのなく良く下処理されたもつ煮込みにこちらが唸りたくなる。

そのうちに地元を愛する若者とセンパイがいなくなったカウンターには、
真ん中でバンダナおじさん、二つ空けてうなりおじさん、三つ空けて電車待ちおじさんが残り、
店の外からの「センパイ!もう一軒いいっすか!」と声が響くカウンターで
三人のそれぞれのステージで酒を飲む、どこか心地好い夜の始まりの時間のなか、
電車待ちおじさんがカウンターというステージを降りて、残った二人のひとり芝居は続き、
きっと夜更けまでかしら、とか考えながら階段を上がる一段ずつで現実に戻り、
電車待ちおじさんから、ただのおじさんが人混みに紛れて改札を抜けてホームに向かう。
足を動かさずとも運ばれる階段を上がり、近未来のように感じる無機質なホームで、
こちらも無機質な案内を聴きながら「酒場はステージ、人生も」の言葉を思い出す。
ものすごい勢いで入ってくる「電車」に吸い込まれる。
目が覚めたら東京にいた。

令和八年 夏の終わりの酒場にて
栗岩稔