2026/08/18 10:00


「おい、あのさ、風呂から上がったら電話してみるかな、ひとり三千円か四千円でって。

あいつに任せたら、ひとり一万円とか言われちゃうからさ、な。」
「あー、そうだな。」
「風呂から出てさ、あそこの食堂でジュースでも飲んでさ、予定を決めなきゃなんないしな。」
「あー、そうだな。」
と汗が吹き出る顔を拭きながら露天風呂から上がって室内の大きな風呂に戻っていった。
こちらもそろそろ、と室内に戻ったそこには、想像した通りのもうひとり連れがいて、
それが二人で話したかった二人とそうでない一人という答え合わせが出来た。
「あいつ」を含めた三人はそれぞれに上がり湯を浴びて、立ち上る湯気のなかを出ていった。
その入れ違いで、足首から下が真っ白であとは真っ黒(もちろん肌着箇所は除くけれど‥)で、
よく日焼けして清々しい若者が二人、どう見てもアスリートで、その体型から見ても、
夏の合宿地として有名なこの辺りに多いラガーマンではないと思えるけれど、
相当本格的にトレーニングしていると容易に想像出来る二人が風呂場に入ってきた。

筋肉なんてものは、ほぼ消え失せた貧相な身体が情けなくなるほどの二人を避けるように、
山の風と陽射しが心地好い露天風呂にまた戻り、誰もいないことを良いことに、
背中を上に横になって、二日間座りっぱなしで固まった腰を伸ばしながら首まで浸かった。
そういえば中にはジャグジー風呂があったと思い出し、またしても誰もいないそこで、
同じ体勢で浸かった、というか寝たまま、なんだかんだで一時間以上の温泉療養(!?)を終え、
吹き出す汗を拭きながら、入る前にチェック済みのふれあい亭という名前の食堂に、
生ビールあります、と旗が揺れていたことを想像しながら、義兄が迎えに来てくれるまでは、
まだ三十分、というか生ビールのために残した三十分をどう使うか考えながら、
きっと昼時だから混んでいるだろうなー、でもつまみとかあればうれしいなー、とか、
でも迎えに来てくれるのに悪いよなー、でも義兄が待っている間にビールでも、
そう言ってくれてたしなー、でもそのまま鵜呑みにしたら甘え過ぎだよなーとか、
でも、鵜呑みにして甘えて飲んじゃおうかなー、とかとか色々考えながら着替えた。

ふれあい亭の前には、よくは知らないけれど、大手牛丼チェーンのような券売機があり、
その場に不似合いな機械の前には、小さな子どもを連れたお父さんが昼御飯を選んで料金を入れて、
その食券を手にした男の子がたぶん唐揚げ定食と思われる話しをしながら、
厨房にある窓口に差し出すと、どう見ても絶対に地元のおじさんに嬉しそうに手渡して、
家族連れには最適の広間に向かい、もうひとり、お母さんと思われる若い女性が
いくつかの定食メニューを、慣れているのか、とてもスムーズに購入して、
窓口に出していったその様子に、あー、やっぱり混んでいそうだなー、
席すらどうかしら、大広間にひとつぐらいあるかなーとか、
家族連れのなかにひとり生ビールを飲んでいるおじさんの図を想像しながら、
自分の番になるとやっぱり、お酒のメニューを画面上に探し、端も端に見つけて開いた。
この期間や今はたぶん必要とされていないメニューに迷わず生ビールをひとつ確定、
画面上に誘導されるようにおつまみのメニューを見つけ、まんまとはめられて冷奴を選択、
そんな自分を失笑しながら、お釣の小銭と食券を二枚受け取り、右手後方の窓口に向かう、
きっと、さっきの子どものように嬉しそうなんだろうなと思いながら差し出すと、
受け取ったおじさんの食堂か広間かの問いに、迷わず食堂と答えて赤い暖簾をくぐった。

その食堂ふれあい亭にあった大きな四人掛けのテーブル三つには家族連れは一組もなく、
二人連れ、三人連れのおじさん五人が陣取り、大きな窓に面した席にまたひとり追加された。
真ん中の席では多分ラーメンを待つおじさんが麦茶のコップに箸を乗せて待ち、
入り口側の風呂場で見かけた例の三人はコカ・コーラのレギュラー瓶三本を三角に並べ、
大きな席を一人占めすることに気が引けながら、ほどよく冷房が効いた食堂で、
大きな窓から降り注ぐ陽射しと山並みを楽しみ、入り口側では、これからの旅の予定を話し、
その相談している漏れ聴こえてくる内容に男三人長野旅で、羊か馬かと話すその言葉に
長野南部と推測しながら、同世代と思われるその三人の男旅が少し羨ましく感じながら、
大きな壁掛け時計に約束の時間までは三十分を切ったことを知り、生ビールと冷奴を待ち、
これだったら一杯かなー、とか考えている自分が可笑しく、やっぱり自分はひとり旅と知った。

ほどなくして、渡し口カウンターから、これまた地元でしょというおばさんが顔を出し、
「はーい、カレーライス二つ!」と言う声に、そう言えば番号とか言われなかったし、
食券の半券すらないことに気づき、その管理にも少しのどかさを感じながら、
あの二人はカレーライスだったと読み違えたことで自身の洞察力の甘さも知ったり、
そうこうするうちに、さっきの窓口のおじさんが顔を出し「生ビールと冷奴です」の声に、
他の二組五人のおじさんが、ちらりとこちらを見たことに気づきながら、
ホント、スミマセン、こちらは運転しないもので、そもそも免許証すら忘れてきたし、
ここまでは、クルマで来ましたけど、と思いながら受け取って席に戻った。
この辺りでは当たり前のうれしい木綿豆腐ののったガラス皿と小ぶりの生ビールが並び、
姿勢を正して、まずは生ビールを多めのひとくちで喉を潤し、
よく冷えた豆腐ひとくちを追いかけるように口に入れると、
芯から熱くなっていた身体全体が覚めていくのが手に取るようにわかる旨さに、
次にもうひとくちの豆腐を含んで、その大豆の香りを楽しみ、次に生ビールと順番を替え、
小銭入れに六百円が残っていたことを確認して席を立ち、迷わず券売機に向かった。
今度は手慣れた操作で生ビール券を一枚買って差し出した窓口ではおじさんが何も聞かずに
赤マジックで印をつけながら「生ビール追加でーす」奥の厨房からの「はーい」
そんな声が響くなかで席に戻り、残してあった生ビールを飲み干した頃に窓口から、
「はい、生ビールです」とこちらを見ながら顔を出し、小躍りしたいほどに
うれしいタイミングの良さに感謝しながら受け取り、時計に十五分の余裕を確認、
そしてまた、席に戻ると姿勢を正して、よく冷えた生ビールを更に多めのひとくちを頂いた。
空のグラス二個とうっすら醤油が残るガラス皿を手に、おじさんたちの脇を歩きながら、
ホント、スミマセンと飲めないおじさんたちと義兄に心の中で詫びながら向かった食器返却棚には、
ビールグラスはひとつもなく、そりゃそうだよな、と思いながら目立たない場所に置き、
残り十分の時間を確認しながら、受付のおじさん、おばさんに挨拶をして外に出た。

この山あいの町営温泉施設までの道すがら、送ってくれた義兄の車のフロントガラスに、
山並みから沸き立つ雲に見とれていると「何だかカッコいいよね、あの雲」と義兄が言った。
「確かにそうですね、カッコいいですね。あっちにいるとこんな風に雲が沸き立つところは
見られないから、見とれちゃって‥、すっかり忘れてましたよ、こんな風景やその良さとか‥、
こういうことをもっと知っていたら、もっとこっちにいたんじゃないかなって‥」
「でもさ、東京だって良いところがたくさんあるんじゃないかな、
だから、良いんじゃないかな、今は今で、そのままで」と在学中には在京していた義兄が言った。
「確かにそうですね、そうですよね」としか言えないままに、同校の大先輩でもあり、
義理の兄だけれど、実の兄のように思っている義兄にそう言われて安心している自分、
そんな会話を思い出しながら、刻々と姿を変える山並みに沸き立つ雲を眺めながら、
いつもより格段にうまいと感じるタバコを一本吸い終えると、もっとよく雲が見えるようにと、
駐車場の脇のガードレールに腰掛けて、また広くて青い空を見上げて、また見とれた。
少しのざわめきの先に視線を移すと、ATHLETIC CLUBと印刷されたTシャツ、短パンの集団が、
送迎バスに乗り込むその様子に、風呂場の二人は陸上部だと答え合わせが出来た頃、
時刻通りに迎えに来てくれた兄の青い車が目の前に止まり乗り込んだ。
「どう、ゆっくり出来た?」「はい、最高でした。ありがとうございます!」「いえいえ」
と言葉を交わすと走り出し、新盆の帰省中に連れ出してくれた二時間半の夏休みを終えた。
実家まで送り迎えまでしてくれて、その後はまた自身のお盆の用事に向かう兄が運転する、
青く広い空にお似合いの青い車に向かって深々と頭を下げて見送った。

その夕暮れに、五十年前からの幼馴染みが、当時から家にまで遊びに行ったり来たり、
色々と面倒を見てくれたお母さんとお姉さんを連れてお参りに来てくれた。
一緒に遊び回っていた地元の坂の上と下の小さな世界しか知らずに進学して、少しずつ少しずつ、
距離感と世界観が違っていったあの頃の世界が懐かしく、今となっては、
生ビールだ冷奴だ時間だと言っている自分と比べてみても、あの頃には知る由もなく、
想像も出来なかった自分が今いることに改めて気付かされた夕暮れの夏の終わりだった。

令和八年 ひとり酒場と化した山あいの食堂で
栗岩稔