2026/08/04 10:00

先日、浅草公会堂で開催された日本舞踊の発表会にお招きいただいた。
生まれた頃から知っている女の子が踊りを始めて、今や舞台に立つようになったことを
とてもうれしく思いながら、そのハレの舞台を見せてもらった。
小学6年生とは思えないほどの仕草にすでに「女」を感じさせる素晴らしい舞いで、
大人たちのなかに混ざっても格段に指先の動きや足の運び、首の角度など、
細部に渡って意識しながらの踊りに相当の稽古を積んだのだろうと想像出来る姿に
見とれながらも、彼女の家庭環境を想うと尚更、涙腺が緩み感動する晴れ姿を見せてもらった。
その道中、久しぶりの銀座線に乗った車中では上野や広小路の駅名に自分にとっての
初めての東京を思い出したり、人生初の地下鉄のあの時の息が詰まるような
地下空間に戸惑ったのも銀座線だったし、住まいや仕事場が渋谷起点だったから、
東京に慣れるまでは頻繁に利用して表参道やら青山やら神宮前やらの
ザ・トウキョウという駅に行ってみるためだけに乗っていたから、それもまた懐かしく、
浅草自体もだいぶ久しぶりだったから、それも楽しく、けれど地元で知り合った
同い年の素敵な女性との微妙な関係のままに彼女は就職した最初の勤務地だったから
連絡もせずに来てみたりしたことも懐かしく、淡い記憶を思い出したりしながら、
彼女がサービス担当をしていた観光ホテルも今は名前を変えていて、
彼女自身もパリに旅立ったままに音信不通になっていたこともあって、
幾ばくかの寂しさも感じながら、それでも、やっぱり浅草と言えばという
天丼の香りや天ぷら三定の鱚天に後ろ髪を引かれ、舟和の芋羊羹に誘われながら、
昼前の雷門通りを真っ直ぐに歩いて、外国人観光客と一緒に目移りしながら歩いた。
歩きながらふと、普段銀座辺りを歩いている時には、JAZZだったりSOUL、R&Bだったりが
頭のなかで流れているけれど、浅草を歩いているとそうではなくて演歌とか、
ムード歌謡みたいなスナック歌謡(そんなジャンルがあるか知らないけれど‥。)が流れていた。
雷門通りを真っ直ぐ歩いて浅草一丁目の信号をオレンジ通りに右折して、
奥まったところにある浅草公会堂では、たくさんの着物の女性と高齢の男女が楽しそうに、
会場内ではそれぞれの知人や師事している先生の舞台に声援を送ったり、
見とれたりしながら、平日の昼とは思えない穏やかで和やかな時が流れ、
舞台の上では、それぞれの流派の生徒さんたちや先生の踊りが披露され、
5分から10分足らずのそれぞれの舞台のために、全て舞台装置を変えるなど、
大掛かりで素晴らしい、関わった人たちの苦労も垣間見える発表会だった。
けれど、楽しんでいながらも自分の頭のなかで始まっていたスナック歌謡のリズムが
さらに増していたし演歌をテーマにした踊りを披露する女性も多かったから、
なおのことスナック歌謡に染まっていく自分を否めなかったけれど、
何だかとても心地好い時間が流れ、そしてそして、お招きいただいた彼女の
待望の舞台を感動に包まれながら終えて、別の後ろ髪を引かれながら会場を後にした。
太陽がちょうど真上に感じる雷門通りをまた歩き、銀座への帰路に着き、
浅草観光をしてから帰りたい気持ちを押さえながら、浅草と言えばアサヒビールだよなー、
とか考えながら急ぎ足で、冷房に冷えきった身体を暖める陽射しのなかを歩き、
始発が嬉しいけれど、また冷やされる浅草駅で乗車すると、あっという間に銀座に運ばれ、
一番暑い時間帯の地上に出ると、普段は頭のなかにパンクに近い
SOUL、FUNK JAZZが流れる銀座通りから松屋通りに右折する道中ずっと演歌だった。
酒場に向かって歩きながらまた、ふつふつと、そういえば、が沸き上がってきた。
演歌って何だろう、知っているようで知らなかった演歌って何?と考えながら歩いた。
日本人ならではの情感や哀愁みたいたものを、こぶしを回して歌う音楽、
そのぐらいしか知らなかったけれど、一体何故演歌?と知らなかったことをまた調べた。
知っていたほうが楽しいから調べてみたら、目から鱗の答えに出会い、
人生の糧になったような、人生の何の役に立つかは知らないけれど、
新たな知識を得たことが嬉しく、さらに演歌に興味を持つことが出来た演歌日和の浅草だった。
その起源は、明治時代の自由民権運動において、政治批判や主張を人々に広く伝えるために
街頭で歌われた「演説歌」で、ひとつの音階を細かく上下させて歌詞に込められた、
悲しみのような感情をドラマティックに表現する歌唱、ということで、
その「演説歌」って何だろうかと、当然のように興味が沸いて、引き続き調べてみた。
明治10年代の厳しい言論統制や弾圧、演説会の制限がされたなかで、
政治活動家や書生(現在の学生)、壮士と呼ばれる演説家の人々が演説の代わりに、
自分の主義主張を訴える手段として、メロディをつけて歌ったもので、
一般民衆に分かりやすく伝わりやすく政治批判や主張や社会批判広げる、
プロバガンダの役割を持っていたらしく、なるほどそういうことかと納得出来た。
この歌唱法やメロディが民衆に伝わりやすい歌として残りこぶしとともに歌謡曲として
独自の情念や感情を表現する歌として残ったものだということを知り、
それはきっと西洋音楽でいう1990年代のラップのようなもので、古くはスペイン、
アンダルシア地方を起源とする口伝だけで伝わったフラメンコと通じるところがあるのかも、
と世界の音楽シーンと照らし合わせて考えてみたら、なおさら楽しくなってきたし、
歌謡曲でもPOPでもなく、ムード歌謡でも民謡でもない独自の立ち位置と
その存在感を示し続けて、長い間ずっと途絶えたり廃れたりせずに、
明治大正昭和、そして今の今までなくなることのない、日本人ならではのジャンルだと、
妙に納得したし、好きの度合いも高まったような気がしている。
どっぷり演歌に浸かりたくなったその日、余計な蘊蓄はさておいて、
普段はその歌詞の言葉を聴きいってしまうから、敢えて聴かないようにしているけれど、
その日はとても、どうしても聴きたくなり、酒場の音楽ブレイリストのなかに、
演歌を中心とした昭和の名曲、自分世代で考える名曲のリスト「昭和」を開き、
少し大きめの音量で、あの頃にフラッシュバックするような情感溢れる
「スナック歌謡」を聴きながら、いつもよりペースダウンしたままに、
手が止まったり、遠くを見つめたりしながら開店準備をした。
もちろん開店してからもずっと、頭のなかは「スナック歌謡」だったけれど、
店内はJAZZやSOUL、ラテンなどなどたくさんの音源を流して終えた閉店後、
やっぱり「昭和」に戻してひとり聴きながら、ゆっくりと片付けて一日を終えた。
とても良い一日になるきっかけをくれた彼女に感謝しながら、すべての音楽を消して、
あの感動の舞台を思い出しながら、灯りを消して帰路に着いた。
令和八年 久しぶりの雷門を横目に歩いた日に
栗岩稔
