2026/06/30 10:00


今日で一年の半分が終わる。

折り返しと考えるか通過点と考えるかはそれぞれだと思うけれど、
今日六月三十日は夏越大祓という、全国の神社で半年間の罪や穢れを祓い清め、
残り半分の無病息災を祈願する神事が行われる日だけれど、
個人的なところでは、神事よりも仏事なことが多く、普段接することのない物事で、
洗い清められたような気がしているけれど、もちろん罪や穢れがなくなることはない。
けれど、心持ちだけは清らかな気持ちでこの日を迎えられている。
その夏越大祓という神事では、茅の輪くぐりなどをよく見かけるけれど、
食事では、茅の輪に似せた丸いものを食すのだということを
この歳になって初めて知ることが出来て、またひとつ勉強になったし、
やはり我が国ニッポンの歳時記は美しいと改めて思っている。

巷では、大きな地震が続いているし、黒潮海流の大蛇行を終えたことを示すように、
台風の進路も迷走せずに二つ続けて上陸し、今年もまた大きな被害を及ぼしている。
陸上では昨秋に続いて、本州各地ど熊の出没が相次いで人的被害も多数出ていて、
人間の暮らす領域と動物の暮らす領域が変化しているんだろうし、
そもそも、人間の生息域を広げた結果なんだろうと思っている。
人間が食べるものは美味しいと知ったり、人間の肉の味を知ったりした熊が、
今この時代のニッポンで生存するために、その術を身に付けて学習したんだろうと思うし、
元来熊は雑食で、その時代にあわせて食物も変化して順応しながら生き残ってきたのだから、
当然といえば当然なのだろうし、遥か昔のアイヌの民が信仰の対象としていた山の神、
その象徴的な動物だった熊を木彫りで表現していて旭川市のそれは鮭をくわえて、
それこそ肉食だったんだろうし、他の木彫り熊にしても、大正末期に町のお殿様みたいな人物が、
農民の副業として、スイスの木彫りを真似たモノを作ることを推奨したものが
今は伝統的な民芸品として長らく伝承されてきた熊の木彫りで、
それほどに生活に根付いたもので畏敬の対象だったものが、畏れから恐れに変わり、
捕獲されたり駆除される対象になっている今この時代だけれど、
その昔からつい最近まで日本全域で共存出来ていた時代があったことは事実で、
熊からしてみれば、生き残るために食物を探しているだけなのに、
迷惑千万な話かもしれないけれど、実際に人間社会から見たら被害が出ているのだから、
仕方ないことだと思うからある程度は人間が「管理」しなければいけないのかな、
とも思っていたりもするし、実際に東京都の山間部での熊の頭数は把握出来ていないから
これから「管理」するために対処しなければいけないのだろうし、
現在は九州、四国では熊が絶滅したと見られていて個体は確認出来ていないらしく、
やはり、その生態は現実的に人間社会と密接な関係があったんだろうとも思っている。
自然というか生態系のなかのヒトという立ち位置を感じるようになった時代だけれど、
これから先はまだまだどうなっていくかは全くわからないし、
もっともっと変貌していくんだろうし、混沌とした時代になっていくんだろうと思ってもいるし、
人間と熊の共存という神秘的な関係が崩れ去っていく様子が何だか寂しくも思っている。

そんなことを考えながらふと何となく、レオナルド・ディカプリオが待ち望んだ
アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞した「レヴェナント」を思い出した。
狩猟チームの一員だったハンター、グラスがグリズリーに襲われて大怪我を負い、
チームのリーダーに足手まといになるからと置き去りにされ、反対したその息子も殺され、
その復讐心だけで大自然のなかを生き残り、最期は宿敵のグリズリーと戦うという物語で、
自然光だけで撮影された美しい陰影の作品をまた観たいと思ったけれど、
今はまだ、もう少し先で良いかなとか思ったり、とにかく、
人間と熊の関係は畏れと恐れの微妙な関係が必要なんだろうなと、この頃は特にそう思う。

先日、地元の山中、自然の傾斜を上手く利用した言葉のない人が静かに眠る墓地で、
誰もいないはずの山中から人間の会話が聞こえてきた。
近くにいた山守に訊ねたところ「熊避けですよ、熊避け」とにこやかに答えてくれた。
よくよく聴けば地元のラジオ放送が流されていたその小さな不自然な物体に、
そりゃそうだ、この山にも熊はいるし、鹿だっているんだし野生動物の暮らす地域なんだし、
そんなことを考えながら、手入れの行き届いた山林の高い樹木の先の太陽を探した。
今暮らす街の役所の地下駐車場の暗闇に猫ではない動物の親子を見かけたこともあった。
タヌキキかアナグマか、よそからニッポンに来て定住したハクビシンかアライグマか、
その判別は出来ないけれど、確かにそこにいたし、大都会にも人と共存している動物が
たくさんいるんだということを改めて思い起こさせてくれた夏の始まりの日曜日。

この夏もこれから本番を迎え、また酷い暑さになるのかな、と考えながら、
昨夏は体調管理に失敗したことを反省して、今から食事の内容を考えながら、
動物的に何を身体が欲しているかを見極めながら、燃費よく効率よく、
普通乗用車ではなく軽自動車のように身軽で小回りよく長く走れるように、
お盆まで、まだまだ続くたくさんの仏事に向けて生きていけたら良いし、
お盆が明けて夏の終わりを無事に迎えられたら、残暑払いにビールでもと考えているけれど、
今年もまた残暑も酷暑になるのかな、だったら残暑払いではなく酷暑払いだな、なんて、
やっぱり俗世に生きていると同じ「はらい」でも祓いではなく払いなんだな、とか、
その酷暑払いには、やっぱり焼き鳥かしら、たまには唐揚げかアジフライも良いな、とか、
でももう無理かもな、この歳になると、もたれるしなー、とかとか、
やっぱり冷奴と枝豆かな、でも冷奴でなくて、湯豆腐のほうが身体の芯が冷えないしな、とか、
俗人的で雑念ばかりのことを考えながら、夏の終わりを少しだけ楽しみに、
その前に夏本番をどう乗り越えていこうかと考えている今日夏越大祓、
雑念、穢れはなくなりそうもない、一年の半分て折り返しではなく通過点の水無月の終わりに。

令和八年 雑念ばかりの夏越大祓に
栗岩稔