2026/06/09 10:00



マティーニをたくさん作ってきた。自分自身もたくさん飲んできたなかでも
鮮明に記憶に残っているのは3杯で、それぞれがとても自分に教えてくれた。

ひとつはバーテンダー指導も受けた一流ホテルのメインバーテンダーだったアニキ分のそれで、
はじめて口に含んだ時には言葉通りの衝撃を受けた、切れ味鋭い味わいで、
それまでの冷えたジン、くらいのイメージとは全く違うマティーニに打ちのめされた。
次に帝国ホテルのメインバーで、はじめてひとりで訪れて自分を確かめるため、
その場に相応しいかどうかを知るための儀式のような一日の1杯目のマティーニ。
壁面にフランク・ロイド・ライトの建築当時のレリーフが残るカウンターで、
ピンスポットが位置を示すように置かれた真っ白のコースターの上の小降りのグラスと
透明のカクテルピックに刺された緑色のオリーブが沈むよく冷えた清んだゴールドのジン、
その景色があまりに、少し恥ずかしくなるほどの美しい佇まいに酔い、
お通しの柿ピーで飲み干すと、次のジンリッキーで席を立ち、次に向かったマティーニの日。
お次はニューヨーク・マンハッタンのセントラルパーク脇に建つプラザホテルのマティーニ。
メインバーのカウンターで30歳の自分試しのマティーニを注文。
バーテンダーに軽くあしらわれながらも葉巻と共に飲み干した、
日本のモノより一回りも大きなカクテルグラスのぬるいマティーニ
葉巻片手にマティーニを飲んでいる自分にも酔っていた若気の至りのマティーニ。

どれもこれも、バーテンダーとしてはじめて店を任された頃の勉強のためのマティーニで、
やはり全てが忘れられない味と景色になっているし、それから25年後の今に続く、
生業のはじまりであって、そう思えるようになるためのマティーニだったことは間違いない。
飲んだものや自分でも作ったマティーニが常にそれを超えて行く基準だったマティーニ。
自分が作ったたくさんのマティーニのなかでも象徴的で記憶に残るマティーニもいくつかある。

鎌倉で出会った昭和を代表する漫画家の弟で大手新聞社に連載を長らく持ち、
風刺画家としても著名だった老齢の画家は休日の午後早くにカウンターで、
整えた身なりで背筋を伸ばして座り「みのるくん、マチーニ、ね。」と。
80歳を越えた身体に堪えることなく、楽しそうに話し、若い女性を口説きながら、
次にバランタイン17年の水割りを食前酒にしていたその人が亡くなり、
三回忌の回顧展では120杯のマチーニで皆に愛された故人を偲んだ。

同じく鎌倉の酒場でのお別れのあと、ほぼ10年ぶりに自らで探し出して銀座木挽町で再会した装丁家。
再会の一杯目のマティーニに「お前さん、良い歳を取ったな」と言われた10年ぶりのマティーニ。

銀座木挽町で出会って以来、ことある毎にもう15年もの間、酒場が変わる度にいつも、
確かめるように飲んでくれる「きれっきれっのマティーニ」
意見がぶつかり合っていた先輩後輩の間柄がその後には夫婦となった二人が、
うれしいときに彼が飲む、飲み終わると撃沈するマティーニ。
レイモンド・チャンドラー好きやジェイムズ・ボンド好きが飲みたいマティーニなどなど。

これもまた、それぞれのその人のためのマティーニであって、
きっと自分のマティーニというものはなく、それぞれがその人のために作ったもので、
結果的にはそれぞれのそのマティーニが自分のマティーニになったと思っている。
けれど、それぞれの想いを出来るだけ汲んで作ることが出来るようになったことは、
やはり、学びのマティーニがたくさんあったからだと思うし、そう信じていたい。

先日、約2年ぶりに美容師が顔を出してくれた。
彼との出会いはもう15年も前のことになるけれど、あの時から変わることなく、
はじまりはジンリッキーで1杯目の感じで2杯目がジンリッキーがマティーニという、
これも変わらない流れのままに、その日は2杯目のジンリッキーの後のマティーニになった。

そのマティーニを作りながらふと思った。
彼に初めて作ったあの頃のマティーニは主張が強く、だいぶ尖っていたように思う。
けれど、今はだいぶ柔らかでやさしくなったと感じられる、
ミキシングラスから立ち上ぼり香りを感じながら、そう思えた。
お互いに歳を重ねたから見た目は変わったけれど、あまり変わることのない、
酒との向き合い方や同じ客商売としての考え方、仕事との向き合い方など、
語るその口調と話す熱量は変わらず、以前に比べてより良くなっているようにも感じ、
その日は2杯のつもりが、いつしか4杯目のウイスキーソーダを飲み終えると、楽しそうに、
台風を迎えようとしていた夕暮れの陽が落ちる前の街に出て彼の休日も終えた。

マティーニをはじめて他人に作ったのは鎌倉の酒場でのこと。
世界中の一流の酒場を知る酒場の主から店を任され、その友人が多く訪れるその場で、
そのマティーニに期待している人が多いなかで人生初のマティーニを作っていた。
それがどう判断されたかどうかはわからないけれど、主が日本で一番と言っていた
アニキの作るその味を知っているからこその重圧と主自らに頼まれて作ったマティーニが、
半分以上残されたままに食事に出かけたその様子に答えがあった当時のマティーニ。

自腹で材料を揃えて閉店後毎晩の練習と現場の実践で鍛えられたそれは、
いつしか主が三口で飲み干してもらえるようになり、答えをくれたマティーニ。
マティーニだけでなく、氷の扱いにはじまり、何から何まで全てが深夜の修練のあの頃。
あの時にはじまり、時を超えてきた今、きっともう少しよくなっていると思うし、
そう思いたいマティーニは、いつもいつも支えてくれたみなさまに鍛えられた、
長らく現場で作り続けてきた感謝も混ざったマティーニだと、最近特にそう思う。

そんな今のマティーニを、鎌倉の酒場の主であり師であり、オヤジだったあの人や、
10年ぶりに「良い歳を取った」と言ってくれた装丁家にまた飲んでもらいたい、
そう思うけれど、同い年の二人はもうこの世にはいないから叶わない。
他にも語り尽くせないほどに、たくさんの人がいなくなった。
だから答え合わせが出来ない、それは仕方ないことだけれど、今の自分を確めたい、
そう思う気持ちを自分の仕事に問いかけながら、マティーニに向き合いたい。

若い頃から自分を知る人に最近「栗ちゃん、丸くなったね」と言われる。
そう感じるのであればそうなんだろうと思うけれど、それが老化や退化ではなく、
良い意味で変わらないための進化をしてきたものだと思いたいし、そう願っているし、
そんな自分のマティーニが「みのるくんのマチーニ」から「良い歳を取ったマティーニ」になり、
「きれっきれっのマティーニ」が少しやさしくなったかどうかはまたこれからも、
みなさまにご判断いただけたら幸いだし、今のところまだ、現場にいられるようだから、
還暦間近のマティーニを楽しんでもらえるように、年齢に抗わず受け入れて、
今の自分に向き合っていけたら、自ずと答えが出たならば、それで良い。

令和八年 今年初の台風が近づく夕暮れに
栗岩稔