2025/12/16 10:00


日曜日の早朝の東京駅、夜明け前の新幹線ホーム。
一番冷え込みが厳しい時間帯に身を縮めながら暖かな車両の入線を待っている。
早朝にも関わらず、日曜休日らしいたくさんの人が旅立ち(多分…)の時を待っている。
同じ列の前方には東南アジアかららしき5人の家族連れが幕の内弁当らしき袋を提げ、
傍らの男の子は日本と同様にスマホゲームに熱中して自分の世界に入っている。
すぐ前に並んでいるのは、熟年の夫婦と息子夫婦と孫2人が楽しげに待っている。
今日一日でたくさんおさめるであろう一眼レフカメラが祖父と嫁の首から下がっている。
程なく入ってきた車両に皆が向きを変えて、並び直して荷物をまとめ、
日本が誇る機敏な動きで始まる車内清掃サービスの終わりを待っている。

このところの寝不足続きで頭が回っていないことを感じながらボンヤリと、
このたくさんの人たちは、長野新幹線だからきっと、ほとんど軽井沢なんだろうな、
終点長野まで行って観光してから北陸新幹線で金沢っていう人もいるのかな、
大宮で乗り換えて東北新幹線、いや、だったら始発の東京駅から乗るから違うか、
我が地元上田で降りる人は少ないんだろうな、今が一番乾いて寒々しい季節だし、
温泉と蕎麦以外あまり見所が多くないからなやっぱり、とか考えながら、
自分にとっては午前中だけの休日を楽しむための、朝昼ごはんビールとサンドイッチが、
手にしたトートバッグで待っていることをもう一度確認しながら、
東京を過ぎて埼玉に入ったあたりの朝日を浴びての朝昼ごはんとビールを楽しみに、
その後はきっと、間違いなく寝落ちして、気付いたら群馬すらあっという間に過ぎて、
軽井沢の乗降客のざわめきで目覚めるまでの、あの休息の時間を楽しみに、そこにいた。

聞き取りにくいアナウンスとたくさんの音に紛れ込みながら静かな車内に乗り込み、
いつものように緊急対応出来る出入口付近の通路側の1時間半の自分の席に座り、
狙いどおりの隣2席の今のところの空席に安堵して、朝昼ごはんとビールと睡眠の体勢を整え、
日曜日の昼までのいつもの温泉付き日帰りプランの小旅行の始まりに期待した。
温かく柔らかなシートに身を預け目を閉じると、自分勝手な望み、
周囲が静かであれば良いという自己中心的な望みを打ち破る席の配置に耳が反応する。
背後の3人席にはすぐ前に並んでいた息子夫婦と孫たちと左隣には祖父母の二人。
すぐ前の5席すべてに東南アジアからの家族がすでに駅弁を開けて食べ始めている。
あー、今日はハズレか、と自分勝手な諦めに身を沈めながらもまず嗅覚が反応する。
日本では買うことの出来ない香水と駅弁の入り混じった香りが朝の車内に漂い、
聴覚が目を覚まし、背後から祖父母と息子家族の旅の語らいざわめいてくる。
隣に座る祖母は孫に車中のおやつを渡し、それを写真におさめる祖父のシャッター音、
席を立った嫁が望遠レンズで自分以外の血の繋がった家族写真をおさめる。
完全に覚醒して目覚めた五感が働きだしたことを感じながら東京の境を越えた。

公共の場なのに静かに過ごしたいという勝手過ぎた自分を反省しながら、
遮られることのない隣の空席を通して朝日が差し込む頃に冷えたままに忍ばせた缶ビールと、
朝昼ごはんのサンドイッチを取り出し、至福(!?)のリラックスタイムをはじめた。
深夜まで続く長い一日のはじまりを朝日を眺めながら覚悟しつつ、
よく冷えたビールで喉を潤し、つまみ代わりのサンドイッチを頬張った。
眠りに落ちるであろう自分のための体勢を整え、周囲に迷惑がかからないように足をおさめ、
ようやく目を閉じた頃に、覚醒していた耳が隣の席に向けて働きだし、
長野新幹線で唯一見える富士山ポイントに気付き、喜び、話しながらシャッターを押し、
指定席料金の不要な年頃の孫たちも意味もわからずに喜び笑い、
前方の4人は弁当のおかずを交換しながら知らない言語で話し、
子供が熱中しているゲームからは電子音楽と知らない言語のコメントが漏れ出す、
うるさくはないけれど耳障りな1時間半の新幹線旅先か始まった。
けれど、そうはいってもビールに負けた疲れた身体はトンネルを抜けた頃、
軽井沢駅手前まで気付くことなく、周囲がすべて下車した後にひとりポツンと残された。
案の定、客の少ない寒風にさらされる上田駅に、残り3時間の休日の出発地に降りた。

役割を終えた深夜過ぎ、ようやく落ち着いた気持ちで迎えた一服の時、
恐らく氷点下になることを予感させる夜風と満月を過ぎた美しい月あかりを浴びなから、
普段暮らす街では気になることのなくなった、人の声や足音や車の音、
響き渡る緊急車両の音などのたくさんの音が深夜を過ぎて朝まで続く、
けれど、生まれ育ったこの街、実家の庭で忘れていた音のない無音の深夜、
漫画の吹き出しで「シーン」と書きそうな無音の時間に改めて気付かされながら、
思い出したその時間と月あかりを満喫して、またはじまる早朝からの
慌ただしく忙しない月曜日のために布団に潜り込んで長い一日を終えた。
子供の声がうるさいとか話し声が騒がしいとか、そういうことではなく、
ただ耳、聴覚は気になったらすぐに聞き取り、聞き分けようとすることに気付いた。
なかでも興味深く感じたのは、知らない、わからない言語であれば、
電子音でも言葉でも、普段は気にかかるものが、全く気にならなかったということ。
やはり、理解出来る言語はわかろうとして勝手に働き出して聞き取ろうとするし、
そうでなければしない、街に溢れるたくさんの音も聞き分けていることに気付いたし、
とにかく聴覚、耳の力に改めて気付かされた一日になった。
素敵な家族の旅が楽しげであったことは、知らない言語でも充分に伝わった。

いまラジオでは国会中継が流れている。
とても大切なことを議論しているのだからきちんと聞き取らなければいけない、
そうは思うけれど、聞こえているのに、聞き取ろうとしていないし耳に残っていない。
入ってくるのは周りのヤジや拍手の耳障りな雑音と議長の運営の言葉だけ。
国のこれからを決めている場なのに記憶はおろか印象にすら残っていない。
これまた不思議なことだな、と思いながらも自分がもう少し耳を傾けなければいけない、
そうは思うけれど、なかなか国会中継には耳が馴染まないことは間違いない。
五感や感情、時には感性の人間の感覚って改めて凄いものだとつくづく思う。

人間は死の間際、聴覚だけは最後に残り聞こえているのだと聞いた。
自分の最期の音はなんだろうな、とふと思う師走もすでに半分が過ぎた今日。
最近は生成AIの言葉や話しが普通に街にあるけれど、やっぱり人の声は温かい。
日々酒場で触れる人の言葉が心地好く、そんな日々を過ごせることがありがたい。

令和七年 耳障りではなく耳馴染みだと知る師走に
栗岩稔