2025/11/11 10:00


だいぶ冷え込んできた早朝、まだ陽が昇らない夜明け前、
自身の歳時記のように定着した手指の肌荒れに息を吹き掛けて温めながら、
いつも当たり前のように流れているラジオからは代り映えのしない、
日本の政治、経済、悪質化している事件事故の話題が流れ出して、
スポーツでは米国メジャーリーグの話題ばかりが優先されて、
日本のプロ野球の話題が出たと思ったら、戦力外とかトレードの話で、
それはそれで前向きなんだろうけれど、明るくない話ばかりで、
野球小僧だった自分にとっては何だか置き去りになってしまっている感じが否めず、
少し寂しく聴きながらも、日本独自で国技のような、これからが本番の駅伝や
大相撲の話題が増えてきたことはうれしいけれど、年明け2日のレースでは、
ずいぶんと商業的になってきているところが感じられて若干の興ざめがあって、
最近では出雲の大学駅伝や全国高校や実業団、一番は都道府県対抗のほうが、
だいぶ興味を持って楽しみにしているなーとか思いながらも、
もうそんな季節、時節なのかとボンヤリ感じていたところに突然、
スポット番組に切り替わり、まだ眠けが残る心身を目覚めさせる言葉に耳が奪われた。

どこかの国の研究者が日本には四季があるから美しいと言われるがそうではない。
四季折々の暮らしのなかに季節感が溢れた美しい生活があるのだと。
雨季乾季のような地域を除けば世界中各地に四季があるのだから、
日本独自のものではないと言っていた、その言葉に確かにそうだったと思った。
ニューヨークだって、パリだって、ロンドンだって四季があって、
自身でも体感してきているのだから間違いないし、国際的なホテルにも、
四季という名がついたものがあるのだから、本当にそうだと改めて気づかされた。
老眼と老化で視野が狭くなっているのと同じくらいに感性的な視野が狭まって、
小ぢんまりとまとまってしまっていることに目覚めさせられながら、
油分が少なくなってカサカサした手指をさすりながら迎えた晩秋の朝だった。

わが国ニッポンには残念ながら廃れてしまっている年中行事があって、
四季折々の行事や旬の食べ物があって、それに応じたしきたりや、
生活様式がそれぞれにあって、それを美しいと感じることが出来るということが、
ニッポンに生きているということなんだろうと思いながら、
流れ続けるラジオからは、このところ毎日のように伝えられている、
日本各地の熊の被害、出没だけでなく人間を傷付けたり人間の食べ物を漁ったりと、
だいぶ変容しているようだけれど、熊たちは知る由もない人間の生活規範となる、
暦の上では12月あたりから冬眠に入るための準備期間の今、
お腹をいっばいにして眠りに入るための食べ物を探して里山を超えて町まで来て、
歩き回り探しまわっているなかで未知の人間に遭遇して襲うというより、
自らを守るための行動が人を傷付けたりしているのだろうし、
熊が必要とする食べ物がそもそも生息地域に少なくなってきているのだから、
当然のように里山を越えて町に下りてきて、生き延びるための行動によって、
仕方なく人間の生息地域にまで足を延ばさざるを得ないんだろうと思う。
けれど、あまりにも多く発生しているから些か心配はつきない。
熊も現代の環境に合わせて進化の過程にあるのだろうから、
生き残るための熊の生活が変わってきて、冬眠をしない種も出てきたりと、
そんなことも起きたりするんだろうな、と色々考えてみたりもしている。
冬眠した熊が目を覚ます次の春にはまた空腹を満たすための行動が、
より活発になるのだろうから、今以上に出没して人間側からの被害が増えて、
大変なことになっているかもしれないし、警察庁ではライフル銃の使用を許可する制度を
整える方向性だとかも報道されていて、物騒な世の中になってきたなと思いながら、
知っている限りの知恵を絞って考えてみたりもしているけれど、
まあ、いずれにしても、共存の仕方が重要なんだろうと思う。

少し前のニュースでは東京に木枯らし一号が吹いて、長野と群馬にまたがる、
故郷の風景浅間山にも初冠雪が観測され、週末には立冬を迎えている。
今年もまた、短い春から長い長い暑すぎる夏になり、一瞬で過ぎ去った秋、
あったような気がする心地好い季節を終えて、もう乾いた風が吹く冷たい冬になる。
メディアのコマーシャルではあちこちでクリスマスの言葉が出てきている。
自分自身は秋にまたひとつ歳を重ねて、冬から新しい歳を迎えている。
生活規範の暦では一年が終わり、また新しい一年が始まる、
そんな時がもうすぐそこ、目の前にある時節になってきた。

一段と風が冷たくなった夕方、どっぷりと日が暮れた酒場のカウンターで、
目指す人の年齢になったり越えそうな時に自分と比べるのではなく、
今、自分がどうかということが大切で、目指す人や師と仰ぐ人はやっぱり、
自分のなかでは一生越えられないし、越えたと思うべきではないし、
比べるものではないから、歳を重ねるたびに自分がどうかと考えることが大事、
と、世界的企業で大きなプロジェクトを成功まで導いた同世代の男性が言っていた。
自身を振り返ると、海辺の酒場を預かることになったあの時の主でオヤジであって、
師として目指すべき人になった、あの人のあの時の年齢と同じになった今、
あの頃のあの人と比べてしまうと情けなくなるくらいに、どうしようもないけれど、
あの人に受けた影響やそこから生まれた自分なりのカタチがあったから、
今があるわけで、あの数年間がなければ今こうしていないと断言出来るし、
なければ、どうなっていたのかは全く想像も出来ないから、
今この自分を見つめ直して自問自答して還暦を迎えたいと思っているし、
きっと楽しいはずと思いながら今こうして生きていられる。
季節は移ろい時間は刻々と刻まれて、勝手に時は過ぎて行くけれど、
そのなかの自分を意識して見定めながら、最近ずいぶんと身に染みるようになった、
冷たく乾いた風吹く寒い冬を迎えたいと思う。

この散文が更新される火曜の夜に、かつての自身の酒場で、
今は亡きオヤジから託された、というか自分が音楽好きだったから相談された、
ギターの弾き語りをする好青年が毎週欠かさず十年簡途切れることなく、
酒場でライブをしてくれた彼が、武道館に続き、NHKホールのステージに上がる。
こういうカタチを思い描いていたかどうかはわからないけれど、
一緒にテレビを観ることは出来ないにしてもどこかで喜んでいてくれると信じたい。
営業中で観られない放映を独りスマホで噛み締めながら観る、そのときはきっとうれしい。
便利な世の中になったとこんな時にはつくづく思う。

またひとつ役目を終えたと感じられる今この歳の自分がここにいる。

令和七年 木枯らし一号に初冠雪に立冬に
栗岩稔