2025/09/23 10:00

自身56回目の夏が終わって、57回目の秋に入ろうとしている頃に酷い暑さが終わった。
先週には義兄の稲田の刈り入れ作業が終わった。
56歳を過ぎて泥まみれになって、当日朝に降った雨でぬかるんだ水田で足首まで泥につかりながら、
水分をたっぷり含んだ稲の束、湿度100%なんじゃないか、という里山の空気のなかで黙々と運び、
また雲行きが怪しくなってくるまで、一歩ずつ足を運んではぜかけ作業をした。
通り雨をやり過ごす間の早めの昼食に食べたおにぎりが頗る旨くて、56歳にして久しぶりに3個食べた。
やっぱり米は旨いと実感しながらお茶をすすり、空模様を話し合っていた頃ちょうど陽が射してきた。
再開した午後にはすっかり雨が上がり、作業が順調に進み、あっという間の午後休憩のおやつに、
地物で取り立ての梨と青葡萄、傍らにあった塩せんべいと汗をかきすぎて足りなくなった成分を
補うかのように、身体全体に染み渡っていくように、水分の梨、糖分の葡萄、塩分の塩せんべい、
どれもこれも、とても美味しくいただき、作業終了までのラストスパートの力の源になった。
作業を終えて、用水路で長靴の泥を流し、汗と泥を吸った帽子を振り払い、旨いタバコを吸いながら、
一列に並んだ長い長いはぜかけされて逆さになった稲穂が夕方の斜陽を浴びている景色を眺めた。
光輝いて風に揺れている様がとても美しく、里山の秋風が山の雲を流し、汗で濡れた身体を冷やし、
56回目の夏を無事終えられたことに満足していたし、労働を終えた久しぶりの充足感に満ちていた。
57回目の夏の終わりの約束を義兄と交わし、またひとつ楽しみが増えた。
里山から町への急な坂道を下りながら、車中から望む地元の山々には、この土地特有の「逆さ霧」が、
稜線に残る太陽の光を浴びて輝きながら山を下る景色が言葉にならないほどに美しく感動した。
ようやく一年を終えられたことに満足しながらも、肉体的には56年という年月を体感している。
あの日から3日経ってもまだ筋肉の張りが取れていないし、ようやく痛みは収まったものの、
背中から腰、脚まで全体に重い。だからといって、ぐっすり眠れるわけでもない。
眠るための体力が残っていないから、深夜2時に床に入っても、早朝5時半に目が醒めてしまう。
そのあとで二度寝も出来ないから、朝早くから起きている身体を順化したくて、
朝日を浴びなから散歩をして、いつもの公園のベンチで本を読み、とそこまでしてようやく、
頭と身体と心の均衡がとれて、活動出来るまでに要した時間が3時間ということになる。
若い頃には起きてすぐ、気力、体力、知力(?)が整って、一日を始められていたけれど、
今はすべてがバラバラに活動を始めているからそうもいかずに時間がかかる。
これもまた、還暦目前の肉体であることを実感しながら、それ自体を楽しみながら暮らしている。
天気予報では、今日で酷暑が終わるという朝、熱帯夜明けの朝にも散歩をしていた。
いつもの公園では、青々としていたソメイヨシノの葉が黄色味を帯びて、落ちる葉は落ち、
まだもう少し生き長らえたい葉は枝にしがみつきながら、青から緑に変わった風に揺れている。
その揺れる枝葉の影の色も青黒から緑黒に変わり、そもそも太陽の陽射しの角度も違っている。
こうして街の景色のなかのほんの少しの変化も感じられるようになったことにも56年の歳月を感じる。
きっと間違いなく、昔は見過ごしたり、気にもとめていなかった事象に敏感に反応出来ることも、
歳を重ねた証だと思うし、肉体的にしんどくても、これはこれで良いと思う。
そんなこんなで、56回目の暑さが酷すぎた季節を終えて、自身の人生の一年が終わる。
この一年間を何をしていたかというと、特に取り立てて物事があったわけでもない。
短い秋が終わって、あっという間に冬になって年が明けて、春になったと思ったら、
桜が咲き乱れて散り、短い春を終えてすぐ酷い暑さと酷い雨の季節から甲子園が終わって、夏が終わった。
気持ちの好い秋の季候を感じることなく酷い暑さのまま立秋を迎え、もう9月も終わろうとしている。
暑さ寒さも彼岸までという言葉通りになりそうで、古の人の感性に改めて感銘を受けながら暑さが終わり、
秋分を迎えると自身の一年は終わりを迎え、新しい一年の始まりをすぐそこに控えている。
10年以上前から、この路地裏だけで顔を合わせると一言二言、言葉を交わす品の良い高齢の女性と、
今日で酷暑が終わるという夕暮れにまた路地裏で会い、また言葉を交わした。
「今日で終わりらしいわね。どうでしたか、この暑さは?」
「いやぁ、結構参ってますね、でも今日までらしいから、まあ何とか持ちましたね。」
「そうね。でもあなたは私よりだいぶ後輩だから、まだまだ平気よ。」
と言い残して、自身の暮らす高齢者向け集合住宅に向けて静かに歩きだした。
いつも通りの上質で飾らない装いの背中を見送りながら、まあ確かにこの日本には自分より年長者、
人生のだいぶ先輩方がたくさん暮らしているのだから、まだまだなんだろうなと思いながら、
風向きが変わり少し冷たくなった夕暮れの風が心地好く感じながらも、疼いてきたあちこちの古傷に、
秋の雨を自身の身体天気予報で体感しながら、まあでも、とにもかくにも56回目のこの季節、
夏から秋の谷間の好きな時期が終わりを迎えたことを感じて少しだけ切なくても、
57回目のこの季節がどんな風体になっているかを楽しみに、自身の肉体には大きな期待はせずに、
極度の負荷がかからないような生活を心掛け、出来る範囲よりも少しだけ多めに、
生きるための労働、稲刈りの刈り入れ作業で感じた、労働、収穫、食の大切さを改めて、
大都会でも実践して日々の暮らしに向き合いたいと思えるし、毎日必ずこの路地裏に来て、
毎日必ず午後3時には酒場の扉を開けるということをしていきたいと心から思う。
このブログが更新される9月23日常火曜日は秋分の日。
ここまで来るとようやく秋を感じているはずで、季節の境目で分かれ目なんだろうと思う。
ただ、ここ数年はここまで過ぎてもなお、まだまだということもあるからわからない。
けれど、人類がどうあがいても、地球は回っていて太陽の周りを回っているから季節は進むわけで、
全人類に唯一平等な標準時間は勝手に時を刻み、そうこうするうちに西暦の一年が終わる。
どこかしこで、毎年のように、あっという間に云々という言葉が漏れだしてくる。
けれど、勝手に流れ刻まれる時のなかで、その時々にきちんと向き合って生きていけたら良い、
そう常日頃考えてきたけれど、この一年は特に、人間の生命や尊厳というものを身近に強く感じた。
新しい一年もまた、そこには真摯に向き合っていかなければいけないけれど、
57回目の季節の移ろいは大切に全身で感じていきたい。
生き長らえるための何かではなく、今この時を大切に感じて、その積み重ねで一年を終えたい。
そうすれば、良い一年になるのだろうと思うけれど、
また新しい一年が始められそうなこと、
それが何よりうれしい。
令和七年 暑さ寒さも彼岸までの今日に
栗岩稔
追伸、デジタルデトックスな一日につき美しい里山の写真はありませんので、悪しからず‥。
