2025/09/02 10:00


久しぶりにラジオ番組に今日、このブログが更新される9月2日火曜日に出演する。

中央区のコミュニティラジオ局中央エフエムで、この街に暮らす人々という内容になる。
この街に暮らして約20年、銀座といえばというほどの和菓子店で、近代小説にも度々登場する、
空也さんの代表の紹介でこのような機会をいただいたことにありがたく、感謝しながら、
銀座一丁目、旧木挽町で酒場とともに暮らして15年あまりの想いや酒場で生まれた物語や
人の縁というものを中心にお話し出来たら良いのかなと思いながら楽しみにしている。

中央区近隣のメディアで地域が限定されるものの、今ではネットなどでも聴くことが出来るから、
その範囲は広がっているかもしれないけれど、そもそもラジオは一対一のメディアだと思うから、
どんなカタチであれラジオで話し言葉を届けられることがとてもうれしく思っている。

今日は2025年9月2日、今年は昭和元年から数えて100年。当時のメディアは新聞が中心で
ラジオ放送がはじまったばかりの当時から今この時代はネットやSNSへとメディアが変遷してきた。
個人主義から全体主義、帝国主義、軍国主義へと変わっていくあの頃は、
新聞が国民を動かし、時の首相は自身の言葉を直接届けるために広く伝えるために
ラジオを多用して民衆の心に深く浸透させた御公家さん首相がいたり、
陸海軍が政府を支配していた時代には半ば国民を騙すような情報を流し、
民衆を鼓舞して戦争に巻き込んで、国家総動員なんていう状況を生み出したり、
さまざまなカタチで存在し続けているラジオは国家を操るメディアとして
情報統制をして操った時代から、情報が溢れだす時代を迎えた今、
相次ぐ災害の時には貴重な情報収集源として、あの空白の3年間といえる、
パンデミックに襲われた時には一人一人の近くにいるラジオとして存在価値が変わってきた。

個人的にそう考えているけれど、自分にとってのラジオはどうだったかと考えてみると、
今とても生活のなかにあるラジオとして楽しんでいるものの、
故郷の街に暮らした時はテレビ全盛期で、すべての情報、映画、音楽、報道、アニメまで、
テレビを通して時代を感じて吸収して、そうでない時には本を読み耽り、
好きな音楽を探す時にはラジオ番組表でエアチェック(今はエアチェックなんて知らないか‥)
をして好きなアーティストを探し、上京したらたくさんのラジオ局があって、
選び放題だったから、AMFM問わず好きなラジオ番組を求めて聴くようになった。
中でも開局したばかりのJ-WAVEが発信していた音楽や世界の情報を聴くようになった時には、
胸踊る心持ちで聴き、J-WAVEを聴いていることがカッコ良いと錯覚するほどに
カルチャーショックに似た、ある一定のムーブメントだったように思う。

特に深夜の時間帯には大都会の隙間にそっと入り込むようなあの感覚が大好きだった。
その筆頭だったロバート・ハリスさんの「BAR RADIO」はほぼ毎回欠かさず聴き、
いつかはこんな番組をやってみたいなんて儚い夢を抱きながら東京で生きていた。
その後、数年して、まさに今日インタビューを受ける中央エフエムで時を経て、
番組を持たせてもらうことになった時にはこの街に生きてきてよかったと心から思えた。
その番組は月曜から金曜日の夜11時50分から深夜零時までの一日の終わりの10分間、
言葉と音楽を届ける内容のためにラジオエッセイを書き、合わせた選曲をして、
その都度タイムテーブルまで自分で考え、オープン曲とエンディング曲のタイム、
フェードインからアウト、タイトルコールまで、という作業を全80回、
とにかく心底楽しみながらやり終えることが出来た。

そんな思い出を持つFM局でインタビューというカタチで出演する。
こんなにうれしく、ありがたいことはないし、改めてこの街に生き残ってきたことが感慨深く、
この街に生きて20年あまり、東京に来て35年、今だに生きていられることに感謝している。

これが更新される日の前日、9月1日は関東全域に大きな被害を出した関東大震災の発生日。
あの時はまだ、ラジオ放送がはじまったばかりで国民に広く普及していなかったはずだから、
状況がわからず人々はみな不安に襲われていたと容易に想像出来る。
その不安や恐怖から軽々しく口にした噂や雑言があっという間に口伝てで広まり、
デマとなって、矛先を向けられて酷い仕打ちを受けた人々がいると聞いた。
生き残った人々にとって、とても大きな不安のなかに先の人生なんて考えることすら出来ず、
でも何とか奮い立たせて、今の東京という街の基盤を作り上げたことに感服する。

震災を経て、復興というより再生した街では急速にラジオの重要性が高まり広がったと思うし、
人々を勇気づけたり、安心させたり、笑わせたり、一人一人に向き合うメディアになったと思う。
今は一気に勝手に広まる人の言葉の時代になって、誹謗中傷があって人が傷付き、傷つけたり、
精神的に追い込まれて死を選んだり、そうさせたりするその言葉の先には顔が見えず、
人間の体温なんか全く感じられないメディアが幅を利かせている。
だからこそ、今でもあり続けるラジオがとても大切なんじゃないかと思う。

もちろん、自身の生業としている酒場も、顔をつき合わて一対一で人間に向き合っている。
そうすることが酒を飲むたけでない何かの役に立てるはずと信じながら対峙している。
ラジオも酒場も、きっとこれからもっと存在価値が高まっていくと思ってもいる。
あ、これって「BAR RADIO」じゃん、なんて思いながら、いずれにしても、
中央区銀座に暮らしている人々のなかの一人に選ばれたこと自体が光栄なことだと思っている。

上京してすぐに逃げ帰るつもりだった東京に暮らして、あっという間の35年間。
この街に生きてきたことを実感しながら15分というインタビュー時間を存分に楽しみたい。
何をどう話すとかは事前打ち合わせ無しの状態だから、まさにぶっつけ本番になるけれど、
そもそも、これまでの人生がぶっつけ本番みたいなものだったから大丈夫、なんて‥。
まあ、とにかく喋り過ぎには気をつけます、はい。

令和七年 この街の暮らしを語るとき
栗岩稔