2025/07/08 10:00

雨の降らないある日の午後3時ちょうどに酒場の扉が開いた。
ちょうどを狙ったかのように額の汗を拭きながらカウンターの端に二人並んで、
女性は明らかにこちらを知っているかの様子で穏やかな表情で座り、
男性は少しだけ警戒しているかのような表情でバックカウンターの酒を眺めていた。
かえって失礼があってはいけないと思い、誰かの紹介か否かを尋ねると、
すでに4年前のあの夏、100日間限定で開かれた酒場、
世界的な企業の創業者の名前を冠した BAR MORITA で面識があった。
聞けば昨年秋に完成したGINZA SONY PARK の立案者であり代表者と
キュレイターでクリエイターで著名なギャラリー書店の店主の対談のなかで、
栗岩の名前とこの酒場のことをしきりに話しているのを聞きつけて、来てみたとのこと。
ありがたさとうれしさを感じ、覚えていられなかったことに反省をしながら、
コロナ禍の緊急事態宣言中で提供出来なかった酒の今日の注文を尋ねると、
奥様は季節のフルーツカクテル、ご主人は名指しでシングルモルト駒ヶ岳2023。
これまでにあまりなかった駒ケ岳の名指しは何故かとの問いに、
彼は長年この蒸留所のファンで創業以来ほぼすべての年度の物を自宅に置いてあって、
唯一なかった2023EDITIONを奥に見つけたので是非飲みたかったとのこと。
長野県が誇るウイスキーを好きでいてくれることにうれしくなり
色々なことに話しが広がり話が弾み、よくよく聞けば、
好き過ぎて蒸留所まで行って購入したこともあるらしく、
長い休暇の楽しみのひとつになっているということから、仕事の話しになり、
お二人ともに船乗りだということに驚き、長期間の海上と港の仕事を終えて、
休みが合った時にその時間を存分に楽しむ二人の姿がとても素敵に感じた。
ご主人曰く、休みに入る一週間前があれこれ計画を立てているから楽しく、
休みが終わる一週間前あたりから徐々に仕事モードになっていき、
実際に仕事が始まった一週間は生活のリズムが変わるから大変だけれど、
また次の休暇を楽しみに海上で過ごしている、そう話す隣であまり多くを語ることなく奥様が、
にこやかにそうそうと頷きながら2杯目にウイスキーをオンザロックで楽しむ様子に、
これまでのご縁で4年前の夏があって今があるということを改めて実感し噛み締めた。
たくさんたくさん海のことを話すなかで、とても印象に残っている言葉がある。
外洋に出て、ただただ広い海を眺めながらも全方向に注意を払わなければいけないし、
下を向いている暇なんか少しもない。だから休暇で陸に上がり街を歩いていると、
手の中のスマホに視線を落としている人の様子が目につくし、心配になる。
特に若い人たちには視線を上げろ、そうすればもっと色々なことが見えてくる、そう言いたくなる。
という彼の言葉に心底同意したし、実際に街中だけで日々暮らしていると、
今この時期特有の紫外線対策の日傘を持ったまま、片方の手の中にはスマホを持ち、
両手が塞がった状態で歩きながら、視線をは下に落としている人をよく目にする。
つい先日には、真っ直ぐ前を見て歩いているように見えて、視線だけ左下を向いていて、
全く前を見ないで猛スピードで歩いてくる様子に、危ないなー、と思わず避けたし、
こんなに青く晴れ渡った空が広がっていることを感じたら良いのに、と切なくなった。
陽が落ちかけた頃に残り少ない休日の夜を楽しむために街に出た二人の背中を見送りながら、
存分に陸上を楽しんで欲しいと思いながらも、船が好きで仕事に選んだ二人が
少し羨ましくも、潮流や風の海の話しをまた聞かせて欲しいと思った。
しばらく見ていない海を見たいなー、と思いながらカウンターを片付けて、
次の酒の時間と物語を待ちながら、これまでの船旅、彼らには申し訳ないけれど、
陸から海に向かって休日に乗った船のことを思い出していた。
初めての船旅、25年以上前の小笠原諸島へのひとり旅では、色々なことに疲れ、
30歳を機にすべてを変えたくて移住を視野に入れて竹芝桟橋から向かい
約30時間の航路の海上では、東京湾から外洋に出た時の海の色の変化にはじまり、
その先に広がる、まさしく大海原に感動しながら、船内のラウンジで酒を飲み、
酒なのか船の揺れなのかわからないほどに酔い、島に帰るおじさんの話を聞き、
ひとり旅の年上女性と仲良くなり、ひとりになると夜の甲板で月あかりに涙し、
迎えた朝日を全身に浴びて到着した父島では、ホエールウォッチングのクルーザーに乗り、
うねりを越えるキャプテンの技術に感心しながらも、太平洋ど真ん中の潮流の怖さを知り、
島に戻った夜にはあまりも美しい月あかりに誘われて静かな真夜中の海に潜り、
海中からきれいな月を見上げた日の数日後には台風発生の島内放送が流れ、
止めてはいけない定期船を一日早めて出港する知らせと台風に背中を押されるように乗船し、
港を出る船を見送る、たくさんの島の船の並走と人々の見送りに感動し、
酒を飲む気にもならないほどに荒れる海上でいくつものうねりを乗り越え、
黒潮海流を横切る時の激しい揺れをやり過ごした先に見た東京湾の境目に喜び、
遠くに見える陸の高層ビル群に懐かしさすら覚えながらなぜか、
江戸前の穴子を食べたいと思った自分に苦笑いしたこと、などなど、
どれもこれも良い記憶ばかりではないけれど、色濃く思い出に残る小笠原父島への旅。
10年ほど前の神津島への船旅では、伊豆七島を遠くに眺めながら海原を進み、
人々の生活があるそれぞれの島に寄港し乗り降りする光景と、必ず手を降りながら見送る島の人々、
神が座った島といわれる神津島では、火山島ならではの切り立った山の上から見た青い海や、
夜のイカ釣り船で見た漆黒の海とイカ寄せの灯りのコントラストに目を奪われ、
人気のない静かな町の早朝の散歩中に眺めた、忘れることのない静かで美しい海、などなど。
けれど、船旅ではないけれど、長年暮らした鎌倉由比ヶ浜海岸の真冬が一番かも…。
やっぱり久しぶりに由比ヶ浜の海を見に行こうかなー、でも海水浴シーズンだからなー、
混んでるし、うるさいし、散らかってるしなー、とか考えながら、
隅田川テラスを歩いている今、あーそうか、この川も海に繋がっているんだ、
東京湾河口まで数キロというところにいるんだ、と改めて気づいた朝。
令和七年 海を遠くに見た朝に
栗岩稔