2025/06/03 10:00

前略、あの日、5月31日の夜行列車で上野駅のホームに降り立った君へ。


あの時、何を考えていましたか?ワクワク、ドキドキ、夢一杯でしたか?
今となっては遥か昔、35年も前のことだから覚えていることはないでしょうね、きっと。
不安のほうが強かったんでしょうね、根っからの臆病者だから堪らなかったでしょうね。
しかも、午前3時前出発の急行列車と聞いてますけど、そもそもその日程、
6月1日付け異動だから5月31日月末まで元の職場の勤務なんて、
そんなことをする必要はなかったんじゃないですかね、日程に余裕をなくすなんて。
まあ、そういうところは今も変わっていないですね、ケジメというか貧乏性というか。

上野駅に着いたのは午前7時前ですよね。そのあとはどうしていたんですか?
そのまま山手線に乗り換えて本社のあった五反田まで、ですか?
五反田は出張で訪れていたから不慣れな東京のなかでは土地勘が多少あったんでしょうから、
真っ直ぐに向かったんでしょうね、他に知った場所や知り合いはないでしょうし。
たしか、泊まりの出張もあった町ですよね?あの時に一緒の予定だったゆかりさん、でしたっけ、
彼女は今、どうしていますか?あの頃は成田勤務の旅行関連の仕事をしていたと聞いていましたが、
お付き合いしたとか、そんな話は聞かされていないから、きっとダメだったんでしょうね。
離れた場所同士、俗に言う遠距離恋愛は出来ない人だから無理だったんでしょうね。
ところで、五反田駅近くで珈琲が美味しい喫茶店があったと思いますが立ち寄りましたか?
時間に余裕がありすぎたから、気持ちを落ち着かせるためにきっと、タバコたくさんと珈琲、
あの頃はまだ喫煙可能だったから、そこで時間潰しをしてたんでしょうね。
小心者だからきっと、そうだったと思いますよ、居ても立ってもいられない、ぐらいに。
渋谷ハチ公前交差点を渡れなかった話はよく聞かされてましたから、
勤務地の渋谷には時間に間に合うように迷わずに、きちんと渋谷に行けたんですね。

それにしても、余程の衝撃だったんでしょうね、ハチ公前交差点は。
前後左右から人が行ったり来たり、しかも無表情で、なんてまさに、
人のスクランブルな状況は見たことも聞いたこともないし、地元の小さな町ではもちろんないし、
初詣や夏祭りの時の地元でも見ない人の数がいつもいるなんて、想像も出来ませんよね。
ビビりで臆病者な君だからきっと途方に暮れて、野心とかは全くなくて、
流されながらの人生で、また流れのままに渋谷に来た君だから、期待とか希望とかはなく、
ダメだったらすぐに逃げ帰る、なんて考えたかもしれませんね。そんな気がしますよ。
けれど、あの日からもうだいぶ過ぎましたね。あの時の気持ちを覚えていますか?

あのあとはバブル経済真っ只中の波に乗って浮かれまくっていた時期を過ごして、
結婚して離婚して再婚して、吉祥寺から鎌倉そしてまた東京、中央区と、
二転三転して、今は銀座あたりにいるそうですね。酒場を預かっていると聞いています。
どうですか?楽しいですか?
元々酒場や人を眺めていたり、が好きだったから良いかもしれませんね。

歳はそろそろ57歳になりますね。あと何年ですか?いつまで東京、ですか?ずっとですか?
それもきっと流れ、なんでしょうね。還暦までは、なんて言っていたこともありましたよね。
池中玄太じゃないけれど、80kgもあった体重は今はどうですか。減量出来ましたか?
健康的な減量ではなくて、身体を壊して痩せたりしてそうですよね。
まあでも、良い歳なんだから気を付けないといけないですね。
老眼にもなっているんでしょうね。元々視力がよかったから相当気持ち悪いですよね。
見えるものが見えないって、好きだった読者も眼のおかげで減っているんでしょうね。
まあそんなもんですよ、歳を取るってことは。もう少し、あと少し、あとちょっと、ですよ。
きっとこの後も流れにうまく乗って、流されながら生きてきたから最期までいくんでしょうね。

波といえば、最近サーフィンはしていますか?
鎌倉で海沿いに暮らしていた頃は、毎朝海に入ってから通勤していたらしいですね。
またそういう生活に戻りたいですか?それも良いかもしれませんね。
若いころに熱く語っていた、海辺の喫茶店ー舞台にしたドラマのマスターに憧れていた話、
山育ちにとってはたまらなかったんでしょうね。あんな風になりたいって言ってましたしね。
でももうひとつ、夢に破れた若者二人がログハウスを作るドラマも好きでしたよね。
だってまだ地元にいた頃、山に入ってログビルダーの手伝いをしながら生活してましたよね。

まあいずれにしてもですよ、人様に迷惑ばかりかけながら生きてきたのですから、
これからは、これまで生かされてきたことや支えてきてもらったことに感謝して、
そのご縁に感謝しながら生きていって欲しいものです。
君はわりと不義理をしてきたことが多々あったのですから、最期ぐらいはきちんと、
義理と筋を通して、これまで支えて下さったみなさまにいただいた縁を次の世代に繋げるために、
生きていく、それが良いと思いますし、そうしなければいけないと思いますね。
あと少なくても3、4年は東京にいるんでしょうから、東京という街で上手に生きて、
あと何年生きるのかは知らないし、わからないですが、とにかく生かされていること、
決して独りよがりでは生きていけないことを忘れずに生きていってください。
独りよがりで失敗した経験もたくさんあるんですから、それを生かして最期まで、
まあ、長生きする必要はないと思いますがね‥。

最後になりますが、あの日、乗り込む君を列車が出発するまでずっと改札で、
手を振ることもなく見送ってくれたという両親はどうされていますか?
もうだいぶ高齢だと思いますが、くれぐれも最期まで出来るだけ付き添ってください。
散々迷惑と苦労しかかけてこなかったんですから、そのぐらいは、お願いしますね。
きっと死んでも死にきれないほどの心労だったと思いますから。
あとは絶対に親より先に死ぬのだけはやめてください。そんな親不孝はありませんからね。
最期の時ぐらいは穏やかに看取って、見送ってください。

ではでは、また君が還暦を過ぎた頃に手紙を書きます。
それまでは感謝しながら残りの時間を楽しんでください。
誰にとっても唯一平等な時間はただ流れて行くけれど、
その流れる時間を大切に、日々大切に生きていて下さい。
ではでは、さようなら。

令和七年 東京生活暦のおわりとはじまりの頃に
栗岩稔
追伸、今は上田と東京の始発終着は東京駅になっちゃいましたね。少し寂しいですね、何だか。