2025/04/22 10:00


令和七年 少しだけ待って欲しい酷暑が迫る春に
カタクリの花に再開した。

手入れが行き届くことがなくなった実家の庭でひっそり咲いていた。
夏にはスイカやトマトを畑から直接採って湧水で冷やしておやつに、
冬には雪深い山でスキーや雪遊びをする楽しいことばかりの
父親の生まれ故郷に遊びに行っていた子供の頃のいつかの春先、
雪解け間もない裏山を散策した時、まだ湿り気が残る山道の途中の小さな平らな場所、
大きな木の影でこれから迎える春を耐え忍んで待つように小さな花がたくさん、
赤紫の花を下に向けた10cmほどの背丈で、まだ冷たい風を避けて、
寄り添うように、佇むように咲いている光景に偶然出会った。
それまではあまり草木に興味はなく、両親が常にしていた自宅の庭の手入れも、
何故あんなに一所懸命するんだろうと疑問に感じていたぐらいだったけれど、
その小さな花が赤紫の花の光景、その生きている姿に感動して見とれていた。
父親はそれをいくつか掘り起こし、小さな容器に入れて持ち帰り自宅の庭に植え替えた。
その花の名前はカタクリだと教えてもらったあの時から草木に興味を持つようになった。
山と気候が違うからと日陰になる場所に植え替えられた自分のカタクリは、
元気に育ち、株を増やして、毎年咲かせてくれる美しい花が楽しみになった。

実家を離れて35年が過ぎ、昔は季節の草木が育ち花々を咲かせ、
両親が大切にしていた庭は今では手入れをすることが出来なくなり、
枯れ葉や枯れ木に覆われて手付かずの状態になっていた今年、
まだ寒さが残る春先の庭で、ひっそりと確かにそこに植えた、
そう思い出すことが出来る木の陰で、たった一本だけが花を美しく咲かせていた。

これから進む若葉の季節で少しでも生きている草木があるのなら、
何かがまだ育つかもしれない、だからせめて水やりだけでも、月に一度しか出来ないけれど、
目の前の庭を見ることも感じることも出来ない両親が大切にした庭に何か、
カタクリの花のように何かが生きているかもしれないから、そうししようと決めた。

かつてはその根を粉にして片栗粉にしていたほどに、たくさん山野に自生していたカタクリ。
けれど、宅地開発が進み、絶滅危惧種に指定されるほどに数を減らし、
わずかに残る群生地では保護されて、少しずつ数を増やす活躍をしている。
1960年代までは東京近郊の山野でも見られたものの都市化が進んで見ることのないカタクリは、
種子で繁殖し発芽するまでは10年弱を要し、咲かせる花は見栄えする赤紫で、
寒い時期の雨や雪や霜を避けるために下を向いて咲き、枯れると休眠する美しくはかない花。

あの頃からだと思う、草木や花が好きになったのは。
あの頃は毎日毎日庭の手入れをする父親がいた。
初めて働いた珈琲専門店のマスターは、その顔に似合わず、窓辺に美しい花をいけていた。
バーテンダーの道に導いてくれた、今でも憧れのマスターは、
毎週必ず、ガラスの大きな花器に身の丈ほどの季節の草木をいけて、手入れも自らしていた。
海辺の町の酒場の主は友人に華道家が多く、いつも花を感じられた。
自身の酒場を持った時には朝顔を毎年育て、打ち捨てられた鉢植えや、
いただいた草木や花はその最期まで面倒を見ていた。
花と酒と珈琲を共に扱う店をやりたいと本気で考えたこともあった。
華道に進もうと考えたこともあったし、フローリストとして活躍することも考えた。
けれど、やる前から諦めたし、勇気がなかったし、出来るはずがないと逃げていた。
今にして思えば夢物語のようなもので、本気ではなかったのかもしれない。

結局今では、自然や植物に関するドキュメンタリー映像や書籍を楽しみ、
大都会のなかでも感じることが出来る季節の移ろいを楽しんでいる。
もしかしたら今が一番感性が育っているかも、と思い過ごすこともあるけれど、
東京という街にいたからこその草木や花を楽しんでいる自分が今ここにいる。
だから今この季節を迎えて、愛用している夏のサンダル「ギョサン」で裸足の準備をして、
冬の間は休眠していた読書習慣を公園のベンチで再開することを楽しみにしている。
太陽の光や風、草木を直接全身で感じることが出来る心地好い今の季候がうれしい。
年々、今のこの期間が短くなって、あっという間に酷く暑くなってしまうけれど、
だからこそ、この短い季候のなかで、この街のどこかで、
日々の暮らしのなかで、小さいけれど草木の生命を感じながら歩きたい。
今ようやく、そんな自分になれたことがうれしい。

次の日曜日には青山、根津美術館の向かい、昭和を彩ったパレス青山の一室で、
華道家とモノのカタチを追及して具現化する男性の展示に参加させてもらう。
花、器、酒という大切な表現のひとりに選んでいただいたことが殊の外うれしいけれど、
身が引き締まる想いで、少しの緊張感も覚えている。
当日はカタクリの花のように静かに、花や器の邪魔にならないように、
引き立たせるような酒の表現を出来たのなら、とても大事な区切りになる、そう考えている。
だから、そのための準備を怠ることなく当日を迎え、現場の臨場感を楽しみたい。
いつもと違った感覚を感じられていること、それがまた心地好い。

今この酒場では関山という八重桜が花を咲かせ、終わりを迎えようとしている。
フローリストとして活躍する、この酒場の主の友人の素敵な女性がいけた、
その景色がとても美しく、心地好い酒場の時間が流れている。

草木や花に触れて感じていられるこの人生、とにもかくにもありがたい。

令和七年 少しだけ待って欲しい酷暑が迫る春に
栗岩稔