2024/12/17 10:00

♪雪の降る夜は楽しいペチカ ペチカ燃えろよお話しましょ。
子供の頃は何だかもの悲しい感じがして楽しいどころか苦手だった曲を思い出した。
まだ地元に暮らしていた若い頃に自分の車を飛ばして雪道の中を軽井沢町に行き、
大好きな森の木立のなかの一軒家の喫茶店で時間を過ごした。
フランネルのシャツとLevi’sがよく似合う兄弟二人で営むその店は、
オールドビーンズの深煎りした豆をネルドリップで淹れてくれた最高に旨い珈琲、
時にはセットでいただいた自家製バナナケーキがたまらなく美味しく、やさしい時間だった。
特に冬になると数回、休みになると必ず行きたくなる大好きな時間だった。
お気に入りだった大きな窓ガラスの外に広がる中庭の一面の雪景色が見える席、
そこで頂く珈琲と一冊の本に向き合い、店内の照明が不要なほどに雪の反射がキラキラして、
暖炉には薪がくべられ、ゆらゆらと炎が揺れる、とても温かな時間に満たされていた。
社会に身をおくことで大人になりきれていない、ワサワサというか、ザワザワというか、
フワフワした自分の人生をこの先どうするのかと考えていたなかで、
そんな気持ちをぬぐい去るようなスピードで車を走らせてその場に向かい、
逃げるような、到達するような、やり場のない、けれど、心休まる時間だった。
読み耽っていた本から顔を上げると目に入る暖炉を見ているといつも「ペチカ」を思い出した。
子供の頃には苦手だったその曲をその温かな時間でも思い出した。
逃げていたからかもしれないけれど、暖炉のあるほどの大きな家ではなく、
家族に不満があったわけでもなく、ただ切なくなる曲だった、その頃を思い出した。
大人になりきれない中途半端な時でも子供の頃にフラッシュバックする
軽井沢の森の木立に佇む小さな小さな喫茶店のペチカ、暖炉だった。
先日、久しぶりに地元で雪を見た。あ、まただと、「ペチカ」を思い出した。
今は切なくなることもなく、ただ懐かしく思い出す、温かな「ペチカ」だった。
昭和が終わり平成がはじまって終わり、令和になる、そんなことは全く知らないあの頃、
そもそも何故あの曲が苦手だったんだろうかと考えてみた。
当時は何となく普通にたくさんあったロシア民謡のひとつだろうから、
全体的にもの悲しいロシア民謡の独特のフレーズが感じられたから。
今はロシア、当時はソ連の広大な国な寒い地域のどこかの町の歌い次がれた民謡でしょ、
そのくらいに考えて、その出所なんか考えてもみなかった。
ところがなんと、昭和になることすらまだ誰も知らなかった大正13年発表、
北原白秋と山田耕筰のゴールデンコンビによる日本の唱歌だった。
しかも、この曲の舞台は満州、まだ日本の統治下にあった満州国だった。
しかもしかも、現地の日本人が二人を招き作ってもらったものらしく、
ソ連でもペチカでもなく、中国大陸の寒さ厳しい暮らしを表した曲だった。
勝手に思い込んでいたソ連でもないことに驚いたけれど、
簡単に行き来できない日本、遠い祖国を想いながら異国の地での暮らし、
そのことを想像するとなおのこと、この曲に愛着が沸いてきた。
歌詞のなかにある「くりや、くりや」
当時は自分を呼ばれているようで、何だか気恥ずかしかったけれど、
当時の中国では実際に町行く物売りのなかで焼き栗売りが「栗はいかが」
そういう意味で言っていたところから冬の情景を描いたらしく、
後に出てくる柳のフレーズは春を待ち望む想いを込めているという。
何とも切なく美しい気持ちだった。
子供の頃から10代の終わり、それから今までを考えると、
改めて長い間影響を与えてくれていたことに、今改めて、だいぶ遅いけれど、
気付くことが出来たことが、ただただ嬉しかった。
大好きで訪れていた軽井沢の喫茶店全てに薪ストーブや暖炉があり、炎が揺れていた。
あの頃から焚き火も好きだったから「ペチカ」にも惹かれたのかも。
そういえば「たき火」もよく思い出していたっけな、なんて思う。
あの森の木立のなかの喫茶店、まだあるかしら、今度行ってみようかな…。
そうそう、「ペチカ」が懐かしい方、知らない方は特に。
↓
雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
昔むかしよ 燃えろよペチカ
雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ おもては寒い
くりやくりやと 呼びますペチカ
雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ じき春来ます
いまにやなぎも もえましょペチカ
雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ だれだか来ます
お客さまでしょ うれしいペチカ
雪の降る夜は 楽しいペチカ
ペチカ燃えろよ お話しましょ
火の粉パチパチ はねろよペチカ
いかが、ですかね…。
令和六年 大雪を終えて寒さ増す冬至を前に
栗岩稔