2024/11/19 10:00

 先日、歩ける距離なのに自分を甘やかしてタクシーを使った。

歩いて行けば25分そこそこなのに、身体が疲れていた自分のために、

地元の新幹線駅から実家までたった10分、タクシーを使った。

東京と違う冷たい風が吹いていたその朝、若い女性ドライバーに言われた。

「東京の人って霜柱って見たことあるんですか?」

 

地始凍、小春日和が続くなかに寒さがましてくるという七十二候、

霜柱が見えはじめるという霜月のこの頃、小春日和どころか、

暑いんだか、寒いんだか、晴れなのか、雨なのか、曇りなのか、

目まぐるしく変わり、行ったり来たりする季候では、植物、農作物はおろか、

特に人間はこの変化についていけずに体調を崩すんだろうと思う。

実際に自分がそうなりかけている。朝昼晩、特に仕事柄で深夜になると、

どうなっているかわからないし、身体が全くついていけていない。

 

でも、今夜あたりからはようやく日本列島が寒気に覆われて冷え込むらしく、

まさに暦通りの地始凍の季候、東京では地面に土が見えないから

霜柱は出来ないけれど、そういう季候を迎えることは間違いないらしい。

ただ、週の半ばには一気に早送りされて、師走中頃の季候にもなるらしく、

もう、どうにでもなれ、ぐらいに考えることもある。

けれど、自棄になる前についていけない身体になった自分、

それこそ、寄る年波に勝てていないことを受け入れている自分が可笑しい。

 

それにしてもまだ.、地始凍どころか小春日和に近い都会の公園には、

花の名前はわからないけれど小さな花がたくさん咲いている。

この季節に咲く、季節外れの花を返り花、帰り花と言うらしい。

どちらの文字を用いるにしても美しい言葉だと思う。

 

返り咲きするほど勇ましくないけれど、狂い咲き、ひとり咲きすることなく、

返り討ちにあわないように人間社会で生けていければ良いと思う。

花を見ながらこんな風に考えていることもまた可笑しく、これもまた、

勝ち負けなんか全く関係のないところの寄る年波なんだろうと思う。

年波という言葉に気付き、美しく感じるようにもなっている。

歳を重ねた今、そんなこんなが、なんだかとても可笑しい。

 

だいぶ前、たぶん不惑之年に読んだ、赤瀬川源平著「老人力」を思い出す。

あの頃はまだピンとこなかったけれど、今は大いに理解出来るし、

まだ老人ではないのかもしれないけれど、体力も落ちているし、

視力も落ちたから老眼鏡、決してそれをリーディンググラスなどとは言わず、

年老いた眼に使用する眼鏡だから老眼鏡、それで良いと思っている。

思っているけれど、この年老いた眼には読書すら厳しくなっている。

日常的に光を求めて手を伸ばして、明るい場所に持っていっている。

そんな自分が面白い。だから今一度「老人力」を読んでみようと思う。

勝ち負けではなく、抗うことなく受け入れる波が寄せるのを体感している。

 

実家の庭に生えた霜柱を嬉々として踏み潰し、小さな足跡をつけていたあの頃、

子供から大人になったつもりでいた頃には想像もしていなかった今がある。

想像どころか、あり得ないと思っていた大きな街で生きている。

そんなことが面白い、そんなことを、なんだか最近よく考える。

これもまた寄る年波なのかもしれないけれど、年波の静かに寄せる波に

足下を掬われないように、足腰だけは丈夫でいたいと特に思う。

 

だからまた歩く、歩く、歩く、歩ける限り、歩く。

 

令和六年 霜柱を懐かしむ街で

栗岩稔