2024/09/17 10:00

この散文が更新される9月17日火曜日は仲秋の名月。
今は美しい月が見られるかどうかはわからないけれど、
見える見えないはさておいて、古来の仲秋節という節目。
日本では旧暦の時代に、中国では今でも大切な一日とされているこの日に、
美しい月が見られますように。
その力が降り注ぎますように。
子供の頃から月明かりが好きだった。
もちろん、太陽の下で遊び回り、雨は雨で水溜まりで遊んだり、
昼間の外遊びは好きだったけれど、まんまるの月やバナナのような月、
そうなるわけも知らずに、ただ月を眺めて形を楽しんでいた。
母親におぶさっている頃には、指差して、バナナ、バナナと言っていたらしいし、
まんまる月を追いかけて一瞬行方不明になったこともあった。
今でも月が好きだし、その力を理解して生活の規範にしている。
毎晩毎晩、大都会の明るい夜空に月を探している。
酒とも深い関わりがある。
シャンパーニュ地方では満月の日にビン詰めをする。そうしないとシャンパンではない。
ワインは満月の夜に開けると一番力を罰金がして旨い。
禁酒法時代には、満月の月明かりの下で作り、酒でないように見せるために
ピクルスのビンに入れたムーン・シャインという酒もある。
スペインには満月の日に蒸留するジン、その名もアルケミスト、もある。
我が日本では月明かりを杯に写し込んで目で楽しむ粋な飲み方もする。
古来、体感した月の力とその影響力を基に生活していたのだろうと思う。
それに間違いがないから今でも風習ではなくそう生活しているのだろうと思う。
日頃から空を見上げることなく手の中の電子機器に支配されている現代人より、
古の人々のほうがはるかに、月や太陽、風、水、大地に対して、
真摯に向き合い、畏怖の念と共に生きていたのだろうと思う。
だから自然の脅威に対しての心持ちは違うのだろし、
いくら分析しつくせる現代でも想定を越える理解出来ない力がある。
そういう自分がわかっているかと聞かれたら出来ていないけれど、
理解して体感して畏怖の念を常に抱きながら生きている、そう思う。
ちなみに、酒飲みの話。
満月の日には体内の水分量が満ちているから酔い方は少なく、
新月の日には全てを使いきって渇いた体内には酒も吸収しやすく酔う、
けれど、身体が欲するから飲みたくなる、らしく…。
映画、音楽、旅の月。
30年も前のアメリカ出張の際、ジョージア州最南端の町サヴァナ、
人種のるつぼと言われ、移民の国アメリカの歴史的な港町。
そこのホテルに宿泊し、明日は帰国というその日の夕暮れに
ラウンジから雄大に流れる大河を眺めていた時にラウンジスタッフが、
「あれがムーンリバーさ。俺たちの祖先は港から陸揚げされ、トロッコに乗せられ、
荷物のように船に積まれて内陸に商品として運ばれた河さ。」と言った。
その港町のパブでビールを飲んでいた目の前にレールが残されていて、
見聞きしたばかりだった矢先の出来事に、何とも言えない気持ちになり、
ただ美しいと呑気に眺めていた自分が恥ずかしくもあり、
それもまた、人類の歴史と納得しようとしてみたり…。
そもそも、この地に宿泊しようとした理由も、世界的に大ヒットした、
映画「フォレスト・ガンプ」の冒頭から終わりまで続くベンチのシーン、
あのベンチがある公園があるからという呑気な理由からで、
その町に来てベンチに嬉々として座っていた自分が恥ずかしく、情けなくなった。
冷静に考えれば、あの映画だって局面的な描き方だけれど、
現代アメリカの歴史絵巻のような内容だったことに改めて気づかされた。
そんな若かりし、アメリカ出張している自分によっていた頃、
それから少しだけ成長した頃のプライベートで訪れたアメリカ、ニューヨーク。
大好きな街マンハッタンで現地在住のジャーナリストとホリデイシーズン恒例、
リバーサイドチャーチで開催されるニューヨークフィルのヘンデル・メサイア。
その公演を聴く機会に恵まれ、素晴らしい演奏に心が震え高揚したま街に出た。
凍えるほどの冬の街の夜空に美しく妖しい満月に彼女が言った。
「ブルームーン、ですね。」「ええ。」
その深夜、ホテルのバーで独りカクテル、ブルームーンで締めて翌朝帰国した。
ブルームーン、ひと月に二度巡る満月のことで、数少ない機会から、
良いこと、幸運なことの表現に使われる。カクテルは月をイメージする。
たしかに、あの美しく儚い夜はブルームーン、だった。
あのあと、その美しい女性には二度とと会うことはなかった。
旅先での、月と映画とジャズと酒、そんなことをボンヤリと考えていた、
子供の頃にごちそうだった半分に切ったマスクメロンのような下弦の月の夜、
海好きらしく美しく日焼けした女性が、こんな歳になっても日焼けして、
そう恥ずかしげに話しながら、カウンターに凛として座っていた。
聞けば、海がとにかく好きで、娘にもそれにちなんだ名前をつけるほどで、
太陽の下では風に吹かれて,月明かりの下では静かに、時間があれば海に行き、
その時間が一番幸せだけれど、もうこんな歳になって、そう話しながら、
遠くを見つめるその目から涙が流れ、頬を伝う姿がとても美しく、
50年という年月を積み重ねた彼女の人生がとても尊いもの、
いろいろなことがありながらも一歩ずつ生きてきたに違いない、そう思えた。
美しい景色が残る夜になった。
グリニッジピレッジの時刻から換算して定められたそれぞれの大陸、地域の時間。
それが生活の基軸になっていることは当然必要なことだとは思う。
そう思うけれど、それとは別に月の満ち欠け、潮の満ち引き、海流や風、
そんなことを意識して生きていけば、また一味違った人生になると思う。
旧暦や二十四節気が忘れ去られている今だけれど、それを感じながら美しく生きる。
そんな風に考えながら生きていられる今、この時が楽しい。
若い頃の過ちや失敗、失態、そんなことも含めて今があって、今が良い。
月と海と男と女、酒と酒場と映画とジャズ、旅のような人生もまたよろし。
令和六年 あと15回の仲秋に徒然と
栗岩稔