2024/09/10 10:00


江戸時代に氷を運んだ人たちがいた。金沢から江戸まで。

今の距離に換算すると約475㎞、直線距離で約300㎞を。
それも、夏のはじまりの7月1日、旧暦の6月1日に。
今では氷室の日とされているその日に、当時の加賀藩政前田家の時代、
毎年冬、特に大寒の頃に白山山系に積もった雪を山中の氷室に貯蔵、
それを旧暦6月1日に氷室開きをして、長期間押し固められて氷になった雪、
その氷塊を献上品として、遠く離れた江戸幕府徳川家まで運んでいた。
その道具は二重の桐箱を人足で長持ちして約475㎞を運んだ。
溶けることを考えれば立ち止まることすらままならないほどの速さで、
ほぼ走り続けていたのだろうし、それを求められていたのだと思う。
その途方もない距離、今では新幹線で約3時間半でいけるところに
いったい何日かけて運んでいたのだろうといくら考えても想像すら出来ない。
ただ、今とは気候が違うとはいえ、夏のはじまりの過酷さは容易に想像出来る。
献上する側とされる側にとっては喜ばしくめでたい年中行事なのだろうけれど、
その使命を背負って運ぶ人力や、それを生業としていた庶民の力強さに感服する。
決して庶民の口には入らなかった特別でありがたい氷、
だから献上していたのだろうけれど、その後庶民が口にすることを「許され」た。
けれど、町の有力者や権力者が目上や身分が上の人への贈答品としていたから、
一般庶民にとってはいつまで経っても手の届かない白くて冷たくて、
冬に降る雪と違う夏に食する何か、そのくらいだったんだろうと思う。
夏に口にすることが出来ない庶民は氷の代わりに麦で作った饅頭、
それを氷室饅頭として食し、無病息災を願っていたその習慣が今でも
「氷室の日」として今の暦の7月1日に氷室饅頭を食す習慣が残っている。

そもそも、氷というものが一般的に世の中や生活に広く普及したのは、
はるか時が流れた昭和の頃だったんじゃないかと思う。
江戸時代の終わりの米国で、氷を使う冷蔵庫が発明されたところがはじまりで、
氷を作ることが出来るようになるのは、もっともっと後のことだから、
天然氷が出来る地域を中心に、特別なものとして限られたものだったと思うし、
一般家庭で氷を使う冷蔵庫が普及していくのは、電気冷蔵技術の開発で、
保冷、運搬出来るようになった昭和のはじめだったのだろうし、
氷が家庭生活に普及して浸透していったのは、戦後しばらく経って、だと思う。
その後の高度経済成長期になって、三種の神器なるものが登場して、
誰もが手に入れたくなるもののひとつになった頃にようやく、
氷というものが身近な存在になったのだろうと思う。
その頃までは、氷桶を使って大切に扱っていた氷が次第に軽んじられて、
生活を豊かにするという名のもとに便利なものが大量に作られ大量に消費され、
何か大切なものも失っていった時代に入っていったのだろうとも思う。
日本という国全体が国力を上げることに熱くなっていたあの時代があってはじめて、
今の世の中があるのだから否定はしないけれど、様々な大切なモノ、
職人や技術、年中行事、風物詩も含めてなくなっていった時代だったんだろうと思う。
もちろん氷も同様で、映画「オールウェイズ/三丁目の夕日」のなかでも、
電気製品の普及で仕事を失った氷屋のおじさんの言葉も思い出す。
まさにあれなんだろうと思う、氷に限って言えばなおのこと甦る。

今となっては氷を使う冷蔵庫はもちろん、そのための貫目氷やそのサイズの意味、
そういうことを知らなくて当然なのだろうけれど、大きな貫目氷については、
酒場や喫茶店でしか使われないものだと思っているのかもしれない。
実際に仕事中には氷そのものに興味を持ち、質問されることが少なくない。
アイスピックひとつで氷を割っている様子が印象的で面白いのだろうけれど、
その昔は各家庭にアイスピックがあって氷桶があったことや、
桶を作ったり直す職人や、氷屋さんが町に普通にあったことも知らないのかもしれない。
今ではすっかり見かけなくなったことが普通だから知らなくて当然だと思う。
時代の変化に伴って、とひとまとめにすれば話しは済んでしまうけれど寂しい。
冷蔵庫で氷が作れるし、その名の通りの便利なコンビニエンスストアでは、
無いほうがおかしいくらいに普通に売っているし、国全体で生活の質が上がって、
豊かになったということなのかもしれないけれど、やはり寂しく残念に思う。
せめて、そういう人間の歴史があったことくらいは知っていて欲しい。

この仕事の師でアニキ分のバーテンダーが酔うと必ず言っていた。
「栗ちゃんさ、この仕事はさ、酒はもちろんだけど、氷との戦いなんだよな。」と。
妥協を許すことのないグラスの中の氷の状態とその景色とそのうえで引き出される酒の味。
当時はまだ、そんなものかな、ぐらいに思っていたけれど、
今ではあの言葉をことあるごとに思い出し、自身もそこを突き詰めて、
極めていきたいと思いながら、日々考えて開店前の仕込み作業に向かっている。
特に氷を割る際には、その割れかたや状態で自身を判断して、
その日に対面する心持ちを整理したうえではじめるようにしている。

この夏、金沢の氷室文化を現代の技術で再現した人物と出会うことが出来た。
その氷は今や東京どころか、海を越えて米国まで運ばれているという。
もちろん、桐箱で長持ちではないけれど、その保冷技術と航空産業の発達の賜物で。
当時、一歩ずつ歩みを進めて人力で運んだ氷に、今は銀座で思いを馳せている。

その昔、山中で大切に貯蔵、保管していた氷を運び出していた人々はもちろん、
当時からは想像も出来ないほどの現代の氷はもとより、その保冷保管、
それを運ぶ交通、航空などの発展と進化のうえの生活様式になった。
けれども、つい数十年前までは氷屋さんが晴海通りを銀座に向かって、
一歩ずつリヤカーを引っ張り、氷屋を生業としている人たちがいた。
それが今では見ることもなくなり、存在すらしていないし、知られていない。

酒もそうだけれど、当たり前のようにそこにある今だからこそ、
人間社会の歴史と深く関わっていること、それらの物事に直接触れることが出来て、
目の前にいる人々に面と向かって伝えられることがうれしいし、ありがたい。

古の人々の苦難とそのうえにある発展の歴史に思いを馳せながら今、ここにいる。

令和六年 氷の目を見る目が弱ってきた今改めて
栗岩稔