2024/07/02 10:00


文月になりましたね。「ふみつき」は「ほふみつき」

稲穂を踏む月からきている「ほふみつき」が「ふみつき」になったと。
稲穂の実る時季とは、だいぶズレてますね、今とは。
旧暦の頃の季候では文月なんでしょうけれど、今現在では、
ようやく梅雨入りして稲に潤いを与えている水の月の頃ですからね。
梅雨入りすらだいぶ遅れたので、それはそれで、とても心配ですね。
まさに水無月、水の無い月にならなければ良いんですけどね。
田んぼに水が行き渡るように、水が無くならないように願いを込めた名称、
水無月なのかな、なんて考えたりしていますけど、どうなんでしょうね。
それにしても、この雨の季節、以前はそんなに降らなかったように思いますね。
地球規模で何かが劇的に変化しているんでしょうね、環境が。
ホント、自然の力は心底凄いと思うし、脅威を感じますね。
雨の降り方に恐怖を覚えるなんて、まず無かったですからね、以前は。
仕事で訪れた南の島では遭遇した台風の雨や風に人間の力では太刀打ち出来ず、
どうにもならないことは体感しましたけれど、大都会ではなかった、
そんな風に思いますね、ここ数年前までは感じなかったですね。
雨だからって軽く考えたり、甘く見ちゃいけませんね、自然の力を。
でも、ですよ、雨の降る日は特に雨や風の量に関係ないところで、
恐いのは人ですよ、人。

傘をさしたままスマホを見ながら歩いていたら前が見えませんよね。
そのスマホにはセンサーでもあるんですか、警告音でも出るんですか、
前方注意、ピーッ!みたいな、なんてことを思っちゃうほど、
前を見ないで歩いている人がいて、恐いですね、ホント。
そもそも晴れていてもダメだと思いますけどね、ながらのスマホは…。
傘とスマホとカバンで両手を塞いで前を見ないで歩いていたら、
本人が転んだり、何かにぶつかったりするのは自己責任ですけどね、
人にぶつかったり、傘を当てたり、車道の真ん中を歩いたり…。
口うるさいオヤジの戯言かもしれませんけどね、なんだかとてもね、
最近特に強く感じるようになったんですけど、とにかく危ないんですよ。
顔を上げずに前を見ないで歩くって、それこそ目も当てられないですよね。
こんなことで内心ザワザワしている自分がイヤになるんですけど、
かえって自分がいけないのかな、なんて思うこともあったり、
でも、ホント危ないと思うんですよね、あのながら歩きは。

顔上げず スマホ見つめて 傘さして 人混み分ける 雨の街角

今日のことですけどね、前方から歩いてきた人がそうだったんですよね。
だから、その場で止まってやり過ごそうと思って避けたんですよね。
そしたら、その傘が当たって顔を上げたと思ったら、舌打ち、でしたね。
何なんですかね…、ホント、恐い、恐い人間社会ですね。
そんな人間社会に警鐘を鳴らしてるんでしょうかね、自然界は。
雨量、強風、高波、高温、地震、落雷、山火事、大丈夫ですか、人間の営み。
昔は上手に言い当ててましたね、地震、雷、火事、親爺って。

そうそう、この前久しぶりにラーメンっ!とお店に入ったんですよね。
そしたら、昼時の円卓正面の人がラーメンとスマホでしてね、
ラーメン食べながらスマホなのか、スマホ見ながらラーメンなのか、
そんなことはどっちでもよくて、そんなお昼ごはんだったんですよね。
その大切な時間(そう考えてますけど、そうじゃないんですかね…)に、
口に運んだラーメンが口から逸れて口にうまく入らないんですよね。
笑うどころか情けなくなって、自分のラーメンの旨さも半減でしたね。
同じものを食べてるのに同じものに見えない感じがしてきたりして。
お昼ごはんって、そんなに軽視することなのかなって思いましたね。
そのラーメンだって自然の恵みから生まれて、それを作る職人さんがいるし、
ただ空腹を満たすためだけのものだったら、スマホに質問して、
指示されたモノを口にすればどうなのかなって、思っちゃいますね。
そしたら、スマホ時間が確保出来るんじゃないのかなって。
美味しいと思って食べてますか、そのラーメンって訊いてみたいですね。
しないですけどね、でもホント、なんだかなって思いますね。
町で暮らすことに対する愛のようなものが足りないんじゃないのかな、
愛なのかどうかはさておき、なんだか、どこか、そう思いますね。

東京の雨って美しいと思いますよ、いろいろなところでキラキラして。
田舎ではあまり見られませんからね、照明に映える雨の雫とか。
街中の雨に濡れた色彩を見るのも良いんじゃないですかね。
雨だから面倒臭いとか濡れるのがイヤだとか思う前に、
顔を上げて、手中の機械から視線を外して、傘をしっかりさして前を向いて、
危なくない雨だったら雨に濡れる街を楽しんでみたらどうですかね。
都会に暮らしていれば雨を楽しむモノやコトがたくさんあるし、
濡れないで移動出来る地下の街もあるし、もっと、水の月を見直しませんか。

そんなことを考えながら過ぎた大雨の日の酒場でしたね。
でもね、その雨を愛でる人たちが来てくれたりして、良い一日でしたけど、
雨上がりの深夜の帰りには誰もいないコンビニエンスストアの入口に、
同じようなビニール傘がたくさん傘立てに刺さってましたね。
あの傘はどこに行くんでしょうね、ゴミ、ですかね。
傘も持てない人もいるんですけどね、どこに行くんですかね。
大丈夫ですかね、人間社会。
持続可能とか環境問題とか寄り添うとか安心安全とか言ってますけど、
足下の小さな水溜まりに足を掬われませんかね、大丈夫なのかな。
あー、また雨ですね。
あの傘を置いていった人たちは、また買って、また捨てるんですかね。
ビニール傘は前が見やすくて安心するから、私はよく使いますよ。
でもね、私は捨てたり無用の長物にはしませんよ、絶対に。
傘を忘れた誰かに譲ることはたまにしますけどね。

令和六年 水の月、大雨の酒場で独り言
栗岩稔