2024/06/18 10:00

最近考えることが多く、酒場を終えた深夜に考えたりしている。
そうすると、かえって頭が冴えて、頭と身体が分離したような感じになって、
身体は寝たいのに頭は寝ない、そんなことになってしまい、
余計なことまで考えはじめて、悶々とした結果が寝不足、ということになる。
なるけれど、しんどいことはなく、ボヤけた頭から沸くものを楽しんでいる。
そんななか、またまた寝不足で目覚めた、というより身体だけが起きた早朝、
いつものように、コーヒーを飲みながら頭が起きてくるのを待っていた。
そして、いつものようにお気に入りの場所、集合住宅の喫煙所に向かった。
夏の雲のカタチになってきた空を見上げながら、タバコに火をつけようとした。
だけど、いつもと違ってコーヒーカップを持ってきていることに気がついた。
そこまでボーッとしてた?と苦笑いしながらふさがる手をやりくりして火をつけた。
ようやくのコーヒーをひと口とタバコを一服がすこぶる旨かった。
ここ数年、町中は当たり前で商業施設、喫茶店、酒場でもタバコを吸う場がない。
それをとやかく言うつもりは全くないし、良いことと思って受け入れている。
かえって、吸うことが出来る喫茶店や酒場に遭遇すると違和感すら覚える自分がいて、
自らを省みもせず、そう感じている自分が勝手なものだとも思う。
けれどその朝は、誰もいない早朝のコーヒーとタバコがことのほか旨かった。
忘れていた至福の時というものを思い出した。
ボンヤリしていた頭が冴えて、夏雲が消えて真っ青になった空がうれしかった。
少しぬるくなったコーヒーとタバコと青い空の良い時間だった。
そんなコーヒーとタバコの時間をオムニバス形式で描いた大好きな映画がある。
ジム・ジャームッシュ監督作品「コーヒー&シガレッツ」
そのキャスティングの妙と出演者の組み合わせと設定だけ定め、
ほぼ台本無しで一発撮りで流れる時間を描いていくその内容は、
シニカルだったりスノッブだったり、なんともいえない空気感が堪らない、
手元に残しておきたいし、誰かに伝えたい映画作品のひとつだと思っている。
などなど、ボヤボヤ考えていた矢先、調べものの最中に偶然、というよりも、
考えていたから無意識の下で必然のように「コーヒーと短編」という本に出会い、
まず、そのタイトルだけで手に取り、読み耽った。
時代を超えて伝えるべき短編の秀作を集めたその本の中に、
100年前、1925年に発表された梶井基次郎著「檸檬」がある。
関東大震災で壊滅的な被害を受けた関東地方とは対照的な、
京都の町を舞台に、生活に困窮し始めた男が見つけた生活のなかの物事、
その時間の楽しみなどを徒然と語る内容で、その淡々とした文体やリズムに、
日々変わっていく生活のなかで変化していく見方や感じ方、そして本人そのもの、
100年前の京都の町の風景ご眼前に広がる心持ちにさせてくれる作品だと思う。
それにしても、今のような情報過多ではない時代だからこそかもしれない、
京都の町での自身の生活のことだけをボンヤリと描いていること自体興味深いものの、
100年前も今もほとんど変わらない、ひとりの人間の日常の意識、
そんなことを感じられて非常に面白く読むことが出来た作品だった。
なかでも、果物屋で見つけた生活に直結しない舶来モノのレモンを手に、
かつては足繁く通い、画材なども購入出来た老舗文具店を久しぶりに訪れた際、
今は眺めることしか出来ない自分に改めて気付き、その場の不具合を感じ、
手にあったレモンを陳列して去りながら、それを爆弾に見立てて妄想に耽る。
そんな一節が堪らなく、ひとりの人間の深層心理をよく描いていると思う。
この本の編者庄野雄治氏の唯一自身の言葉が冒頭で
「私はずっと、同じことしか言っていない。新しいも古いもない。
いいか悪いか、それだけだ。そして、いいものを次へ渡していくのが大人の役目。
受けたバトンを次の世代の人に渡す。それが人の使命だ。
私はこれからも、それをやっていきたい。
そして、私がいいと思うものが全てではないし、違うと思う人がいて当然だ。
否定でも肯定でもない、たくさんの人のいいものが至るところで渡される世界になるといいなと思う。
あなたに先人たちのバトンが届きますように。庄野雄治」と書いている。
この一文が一番心に残った。ひとり「そうそう、そうだよ。」と言っていた。
自身を振り返ってみても、ただ漠然と何が正解がわからないけれど、
伝えていくことを使命にしてきた物事がそれで良かったんだと思えた。
悶々としていたコトがすっきりして、頭が冴えて、心地好かった。
午後2時のいつものコーヒーはタバコがなくてもすこぶる旨かった。
さあさあ、今日も酒場は午後3時。
そのあとでまた考えよっと。
レモンとか100年来とか、そんなこと…。
令和六年 珈琲と煙草と夏空と
栗岩稔