2024/05/28 10:00

このところ死について考えている。
と言っても死にたいとか、諦めや絶望ではなく、
終いの準備というものの進め方を極めて前向きに考えている。
悲しいとか、淋しいとか、辛い、そういうことではなく、前向きに。
近しい人の死に向かう姿を見て、死に様について、
自分自身に置き換えて、改めて考えている。
延命治療をせずに緩和する対応で死に向かうことに対面する。
昨今、よく目にし耳にする、自宅で最期の時を迎えるということ自体、
とても良いことだと思うが、周囲の人の手がとられる。
本人にとってそれが一番だと思えば、苦になることはないと思うものの、
実際のところではとても困難な「作業」が続くと思う。
早く終わることを望んではいないと思い込んでいる、
長い間続くであろう、先の見えない介護という「仕事」
身の回りのことをする近親者がいれば幸いだとは思うが、
行政に頼らざるを得ない状況になることは当然増えてきていて、
聞けば、地域の公の立場の人々の手はまったく足りておらず、
地方に行けば行くほどそれは顕著で、移動だけ見ても、
大幅に時間をとられ、その連絡もネットやスマホではないためにままならず、
現実的な問題は日本という国中に山積みらしい。
かたや、肉親や近親者になれば情もあるから、良くも悪くも感情的になることは当然で、
それぞれに生活というものがあるから、そもそもそれを守らなければならないし、
ひとつのコトにかかりきりになることは、土台無理な話だという、
これから先、近い将来の日本の国のカタチを極々身近に感じることが増えた。
だから頻繁に地元に行くようになった。
36年前に夜行列車で旅立って以来、いつ帰ろうかな、と考えていた当時、
大都会に居着いてからは何処かで避けていた時期もあったり、
帰れない事情もあったり、何処か蓋をして、山育ちのくせに、
海の近くて生きてます的な顔をしていたこともあったりした。
だから、終の住み処というものの候補地にもしていなかった。
ただ今は、海でも山でも大都会でも、終の住み処と終いの仕事、
死ぬまで現役という、そのバランスを考えて生きているように思う。
そんな矢先、帰らなければいけない用事が増えた。
だから、ここに来ている。
高度経済成長期の開発地域の建て売り住宅の集合体の町。
日曜日の日中なのに、記憶の片隅にある日曜日の賑わいは全くなく、
閑散として物音ひとつせず、穏やかといえば穏やかかもしれないけれど、
もの悲しい、うら寂しい日曜日の町に長居している。
子供の頃にはたくさんあった田んぼは一枚もなく、蛙もいない。
家の中は60年分の家財道具が雑然とそこにあって、
それが違和感なく、時が止まっているようにも感じるけれど、
それが切ないとかは一切なく、時を止めて終いの準備に入る、
その心の準備をしている自分に気付かされる。
もちろん、その時が来たら当然悲しいだろうし、泣きたくなるだろうけれど、
今は何だか自分の中に沸いてくる初めての感情を持って居間にいた。
自分の終の住み処はどこだろうかとか、この町に居場所はあるのか、ないのか、
終いの人生はどうしようとか、そんなことを生まれ育った家で考えていた。
夕暮れを迎えたところで帰京を止めた。
56年目にして初めて駅前のホテルに泊まることにした。
当時は自宅まで歩ける距離だし、酔っ払っていても何となく辿り着けたし、
家に帰らずとも、ベンチで寝入ったりして何処かに泊まることもなかった。
だから、駅前のホテルに泊まるなどということは皆無だった。
今こうして町を訪れた余所者として駅前のホテルに来ると、複雑な想いに駆られる。
ホテルの背後には通学した高校のグランドがあって、石垣があって、城がある。
しかもこの立地、全うな社会人として初めて勤めた百貨店の跡地。
すぐ目の前には故郷を代表する河川が雄大に流れを見せている。
ホテルの一階には、若い頃に散々世話になった、地元で一番と言われた
居酒屋が歓楽街から洒落た佇まいで、そこで営業している。
何だかとても不思議な感覚に包まれながら、肉体労働の疲れに襲われている。
この駅前の立派なホテルの一室で身体を休めることにしながら、
これはこれでありかななんて。
これもまた、いとおかしと思う日曜日。
56年目の地元で迎える日曜日。
支離滅裂な5月最後の日曜日。
さあ、久しぶりの大きな風呂に入ってすっきりして、
久しぶりの地元の夜の町に出掛けようかな、なんて。
焼き鳥屋に行って、スナックに行って、バーに行って…。
40年近く経つけどあるかな、あの店…。
あの店のあの人たち、今もいるかな…。
あー、あのヒトに会って話したいなぁ。
あのこと確かめなきゃ、35年前のこと。
そうだそうだ、色々考えようっと。
35年分を地元の町で彷徨いながら。
さてさて、その前に風呂、風呂…。
令和六年 36年目の「東京」を考えながら
栗岩稔