2024/05/21 10:00

栗岩稔的酒番の流儀
なんて、たいそうな書き出しをしてみた。
命名してもらって二十五年來、自分の仕事を「酒番」と言っている。
酒場のなかで、それぞれの作り手が生み出した良い酒を番頭として預り、
一番(と、思っている)美味しく飲んでもらう仕事。
そのために必要な空間と時間を演出して、黒子となる酒場の番頭。
命名してもらった時には漠然と、良い言葉だと思っていたけれど、
今は胸を張って「私の仕事は酒番です」と言える。
師匠があの世から「まだまだですよ、栗岩くん」
そう言っているのかもしれないけれど、今はそう言える。
このところ、海外の人のお客様の来訪が増えた。
国内在住者はもちろん、旅行者がネット上の地図のしるしで来てくれる。
たくさんの候補がある中から選んでもらえること自体がうれしいし、
様々な国の人々に出会うことが出来ることが、とてもうれしい。
ただし!語学力が完全に我流の自分にとっては新たな挑戦となり、
この歳になって、刺激的で新鮮な訓練、鍛練、修練になっている。
午後から振りだした雨が強まる夕暮れのある月曜日。
アジア系とヨーロッパ系のアメリカ人の若い女性が来てくれた。
星が五つ付いていたから来ました!とうれしそうに、
傘がないのか、濡れた衣服を丁寧にハンガーにかけて座った。
星が五つ付いた酒場の老齢の酒番にとってはプレッシャーとなりながらも、
雨の街に出る前の数時間を楽しんでもらえた、と思っている。
そのコミュニケーションはもちろん、拙い英語と折り鶴。
以前、海外出張の際に習得した「困ったときには鶴を折る」という、
日本人の心を代表するものと信じている折り紙は、
栗岩的危機管理能力(!?)で、気持ちを伝える最強のツールとして、
海外で、宿泊先ではルームサービスのチップを押さえるモノとして、
ひとり酒場で言葉が通じなくて手持ち無沙汰の時には、
黙って手を動かして周囲とのコミュニケーションをとっていた。
その習慣が銀座の街の片隅で幸いして、覚えている手を動かしながら、
拙い英語で会話にならない会話に励んだ。
帰り際、折り鶴を大事にしまう二人に、たまたまその日は二本持っていた、
天下の回りモノと考えているビニール傘を渡した。
一本で充分だと言う二人に、今日はヘビーなレインだからと両方渡した。
激しい雨の夜の日本が少しでも良い思い出になったら幸いと、背中を見送った。
強い雨が落ち着いた遅い時間には、ドイツからカップルが来てくれた。
聞けば彼らもネット上の地図のしるしからだとのこと。
またしても、プレッシャーが再燃して、冷や汗をかきながら、
ウイスキー好きの彼にはウイスキーサワー、彼女にはネグローニをはじまりに、
もちろん、拙い英語と全くわからないドイツ語はあいさつだけにして、
最強ツールの折り鶴がウェルカムトゥジャパンの気持ちとして役立った、と思う。
翌日は温泉旅行に行くという二人は、日本旅行の最後の夜を、
友人と共にまたここで過ごしたいから、二週間後にまたと、帰っていった。
普段使うことのない脳ミソをフル活用したように思いつつ、
心地好い疲れが残る一日を終えて、良い雨の夜の扉を閉めた。
霧雨にしっとりと街が濡れた水曜日。
アメリカ、コロラド州デンバーから夫婦が来てくれた。
またしても、ネット上の地図のしるしだということでも、
プレッシャーが若干弱まったその夜にはたくさんのことを話せた、と思う。
お決まりの拙い英語と折り鶴と新婚だという二人には折り紙の花を添えた。
アニメーション好き、ラーメン好きの二人は、ディズニーランドへ行き、
夕食にはラーメンでお腹を満たしてナイトキャップを楽しんだ。
おすすめのラーメン屋、日本のアニメ、アメリカン・コミック、
今回は休業中で行けなかったと嘆いていたジブリバーク、
そして、日本のウイスキーとスピリッツの話で盛り上がり、
店名の由来は the prime of number で唯一無比な時間だと伝えた。
伝わった…? たぶん、きっと伝わった、そう信じている。
もうひとつ。
常日頃大切なモノとしている音楽もまた空間のひとつだと考えている。
激しい雨の蒸し暑かった夜には、ボブ・マーリーからテリー・キャリアの流れに、
ドイツの彼女が鼻歌交じりに口ずさんでいたようにり共通言語だと思っている。
今宵は、ノラ・ジョーンズのハンク・ウィリアムズのカバー曲を皮切りに、
若い頃のトム・ウエイツのアコースティックサウンドで静かな雨の夜を彩り、
ジョン・デンバーのカントリー・ロードはないけれど、
最後には、ジョー・サンプルのウエイ・バック・ホームで締めた。
デンバーで生まれ育った彼は、同じ名前で好きな曲だと喜び、
ジェーンという名のニューヨーク生まれの彼女は良い雨の夜になったと喜んだ。
そして、「みのるさん、ありがとう、また」とやさしい雨の街を帰路に着いた。
カウンターに残った空のグラスを片付けながら、こちらこそと、感謝した。
夕暮れには僅かな休憩時間を使って、広東省から来日して長い、
祖母直伝のお粥がすこぶる旨い近所の広東料理屋の女主人が来て、
来週からの研修旅行のために、ローマ、フィレンツェの情報を話し、
夜は夜で、アメリカ、日本、アニメ、ラーメン、音楽、酒のことを話した。
いつになく脳ミソ自体に疲れた感じが残ったけれど、
またしても、良い雨の一日になったと噛みしめながら扉を閉めた。
履き古した靴底から染み込む雨が気にならないほどに心地好い雨のなかを歩き、
今日という日の酒番の役目を無事終えたことに安心し、感謝した。
あすも酒番、明後日も酒番、これから先もしばらく、ずっと酒番、
そう思いながら、ゆっくり、雨を楽しみながら歩いた。
帰宅後、酷すぎる英語力を猛省しながら、乾いた喉をビールで潤した。
ひときわうまかった。
令和六年 五月の雨がそぼふる夜に
栗岩稔