2024/04/16 10:00


春霞の空に葉桜が揺れる正午過ぎ

お腹を満たした大人たちが和やかに行き交い
足下にはたくさんの車が無機質に高速で行き交い、
それぞれの週末を前にした街で、
新緑の葉が生き生きと色濃くしげる歩道脇の植え込みに
茶色いモノがあった。

これまで関わった仕事の経験から明らかに上質で、
皮革製のモノが誰の目に触れることもなく、そこにあった。
良くできた作りの見るからにたくさん詰まった長財布だった。
丸々と膨らんだそれには一切合財が入っているように見えた。

あー、落とし物だな、持ち主はご苦労されているだろうな、
そう思いながらも、たくさん詰まっているし、すぐに気づくだろうし、
すぐに探しに来るだろうし、植え込みに隠れているようにしているし、
行政機関の門の前だし、大丈夫だろうと勝手に考えた。
そして、何もせずにその場を離れた。

50m戻れば警察署があるのにも関わらず、
人との関わりを避けるように、後ろめたさを覚えながらも、
その場から逃げるように立ち去った。
きっと誰かが、と他人事のように見て見ぬふり、
しっかり見てるのに、決して忙しくないのに、
まさに、心を亡くした。

一日の仕事を終えた。
喉元に何かが引っ掛かったように、胸につかえがあったまま、
頭から離れることのなかった長財布。
今更ながら、その場を確かめるために帰路を急いだ。
無かったら良かった、無かったらどうしよう、
あったらどうしようと、複雑な想いを抱えたまま、
楽しみにしている深夜の葉桜を見上げることなく足早に向かった。

深夜だけの道路工事の不自然な灯りに照らされて、そこにあった。
12時間前と同じ状態で植え込みに隠れていた。
誰にも気づかれることなく、そこにあった。
12時間前には足が向かなかった50m先の警察署に向かった。
半ば小走りで一気に、深夜の窓口に駆け込んだ。

誰も来ないかもしれないけれど必ず開いている窓口で、
椅子に座ったまま仮眠をしている警察官を尻目に、
必要事項を確認して、書類に書き込んだ。
持ち主が見つかったら連絡するか否か、
持ち主からの連絡可否、双方不要に記しをつけた。
持ち主からのお礼どころかお詫びをしたいくらいだった。
5分ほどで手続きを終えた。
警察官のご苦労様という言葉で胸のつかえがとれた。

12時間前にたった5分の時間を割いていたら、
昼の間に持ち主に見つかり、連絡が届き、手元に戻り、
週末を迎えるこの時間を穏やかに過ごしていたはずだった。
申し訳ないことをしたと思い、ひどく反省した。

人に関わる仕事をすると決めていながら、
人に関わることを避けた、たった5分、50mが足りない自分、
時間に追われるわけでもなく、約束があるわけでもなく、
自分のペースで仕事にかかれるのに出来なかった自分を恥じた。

束の間とれた胸のつかえが戻り、足元が重くなり、
一歩一歩、引きずるように猛省しながら帰路についた。
ようやく見られた深夜の葉桜はやっぱり揺れていた。

喉元のつかえもとれないその日、いつもの倍の酒を飲んだ。
イヤな酔いを残したまま午前3時を迎えた。

少しでも早く持ち主の元に戻れば良いと願うしかない、
いつまで経ってもダメな男の土曜の朝だった。

令和六年 足元の小さきモノに目を背けた春に
栗岩稔