2024/04/02 10:00


もう二年も前のことになる。

三十以上年の離れたひとりの男との出会い。
その交流から始まった「栗岩稔と人間学」
序章からはじめて、会場を移したり、延期したりしながら、
二月最後の土曜日に全十二回を終えた。
最終回の言葉を書き起こし、三月の終わりに公開した。

一年以上かかって全てを終えた。
達成感と安堵と寂しさを感じながら、これまでの言葉を見返した。
ひと言、ありがたい、そう思った。
このための時間を割いて参加してくれた方々と、
このたくさんの言葉を読み続けてくれた方々へ、
まずは、ありがとうございます。

海辺の酒場にいた頃、年長の美しい女性から、これを読みなさい、
そう言って渡された「男の作法/池波正太郎著」
貪るように、何度も何度も読み直し、自身の指南書となった。
聞き手に対して作者が答えるという対話形式をとったこの本は、
男の振る舞い方や考え方を培った経験とその視点で
答えている。
それ以来、そば屋、すし屋、天ぷら屋で、頑張って真似てみた。
もちろん、うまくいくわけもなく…。
でも、いつしか身に付いてきた、ように思う。

いつの日にか自分なりに出来たら良いと考えるようになった。
大それたこと、そう理解しながらも必ずやと思い過ごしてきた。
彼と出会った五十才過ぎ、今だったら出来るかもと思った。
作家志望の彼と言葉で交流を深めるうちに出来ると思った。
だから、始めた。令和四年の秋の終わりのことだった。

前半を終えようとしているところで彼は、旅に出た。
そして、音沙汰なくなった。
だから、一回分だけ言葉が残されていない。
申し訳なく思いながらも、それはそれで彼なりの言葉、
意思表示なんだろうと考えた。

彼がいなくなってからは自身の想いで開催し続けてきた。
考え、話し、聞き、何度も聞き直して言葉を書き起こしてきた。

自分の言葉、匿名とはいえ誰もが見ることが出来る場に公開される。
それにも関わらず、全てに参加してくれた人、一回きりの人、
その回数には関係なく、すべての言葉が素晴らしく、生きている。
口癖、良く使う言葉や言い回しは別々に生きてきた中で身に付いた、
それぞれの自分の言葉、だから生きていると感じた。
このたくさんの言葉が他の誰かの目に触れて、
何かのきっかけになれば良いと思う。
全十二回、一年間とは言わないけれど、数ヵ月に一度ぐらい、
また語り合える場があったら良いなと考えているものの、
今はただ、無事終えたことの達成感と感謝の気持ちを楽しみたい。

誰かが言っていた。
「人」の「言」葉を「束」ねて「頁」に綴ると「信頼」になると。
美しいと思った。
腑に落ちた。
人の発する言葉には責任が付きまとう。
責任が持てないのであれば口に出さないでも良いと思う。
いい加減で無責任な言葉であれば、黙っていてくれ、と思う。
自らの言葉に責任を持てる人間が信頼される、そう思う。

今、弁明と言って紙に書かれた他人の言葉を
棒読みしている先生と呼ばれる人たちがいる。
説明責任と声を挙げている人たちもいる。
何だかな、と思う。
いずれにしても、良くも悪くも言葉は大切だと。


最終回を終えて、記録された言葉を聞いていたある日、
「あの時の自分をようやく冷静に判断出来るようになりました。
また会って話をしてもらえますか」と電信があった。
旅に出ていたはずの彼からだった。
彼なりにあの時の言葉の重さと責任を考えていたのだろうと。
彼の言動には何も言わずに淡々と、初志貫徹したこの春、
彼には、「もちろん、会って話しましょう。」と返した。

また改めて新たな交流が始まると、うれしい。
もし会うことがなくても元気であれば、それで良い。
彼が何かに気づいたのであれば、それで良い。

少し苦手な春本番になる。
あと十五回の桜が咲いた。

令和六年 サクラサク春に
栗岩稔
追伸、新たな語らいの場は音声メディアにしようかな、一発勝負の原稿無し、訂正、撤回無しで…。