2024/03/19 10:00


小さな花が美しいと思うようになった。
歳を重ねたから、ということもあるのかもしれないけれど、
東京に長く暮らすようになったから、ということのほうが、
大きな理由だと。

故郷の町に暮らした時は歩くことはほとんどなく、
自動車か自転車かバイクの移動で目的地を目指す。
周囲を囲うような山々と長く伸びる道路しか見えないし、
他のことにはあまり目がいかないし、気づかない。
目的地に着いたら着いたで、用事をすませて次に向かう。
もちろん、散策などもすることはあるものの気付きが少ない。
散策そのものが目的になって、広い視野を持っていなかった。

方や、東京に暮らすようになってからは、とにかく歩く。
電車やバスで移動しても、その先ではまた、歩く。
自然が少ない都会ならではの緑地が多く、
整備された花壇や草木に目が行く。
コンクリートの建物とたくさんの車や人、そんな雑踏のなかで、
喧騒を避けるように花や草木に目が行く。だから気付く。

車も少なく、人も少ない、故郷で目に入るのは
人気の少ない町と周囲の山々。
だから気付かなかった、と最近気付いた。

光もそうかもしれない、と思う。
ガラス張りのビルや車に反射するキラキラした光。
光に数はないけれど、光の数が多いように感じるし、
色の変化もあるように思える。
太陽と雲と空の下に広がると小さな町には感じない。

都会の入り組んだ道路やビルの間を過ぎる風にも、
方向や角度を感じ、風にも色が見えるような気がする。
夜にはビルの谷間に月を探すようにもなった。

こんなことに最近気付いた。
都会に暮らすようになって改めて、花や草木や風や光に、
季節や時の流れを感じるようになった。

時間に対する意識も変わった。
ビルの向こうに日が落ちてから夜になるまでの隙間の時間、
ビルの谷間にいると薄暗く、空を見上げると仄かに明るい、
あの時間が好きになった。
もちろん、故郷の山々を照らす朝焼けや夕焼けは、
息を飲むほどに美しいけれど、都会の夜の前の隙間の時間、
こればっかりは故郷の町では気付くことも感じることもない。

上京したばかりの頃には、深夜になっても明るい夜空に
嫌気が差したこともあったけれど、月のみえない明るい夜空も
それはそれとして受け入れ、楽しめるようにもなった。

先日、酒場で路地裏の話になった。
路地裏を好きでいられるのは、東京のここだから、と実感した。
路地というよりも露地で、一戸建ての前庭か裏庭で、
そこに暮らす人々の生活感があったような気がする。
あれはあれで良いけれど、そもそもの数が少ないと思う。

この路地裏のように、人の気配はないけれど、上のほうには
人々の暮らしが詰まっていて、なんとなく温かく感じられ、
気の良い風が流れて、隙間から覗く月が見えるこの路地裏、
これが堪らなく好きなのかもしれない。
だからもう少しだけ、この路地裏人生を楽しみたい、と思う。

ちなみに、路地裏はエリアのことで、裏路地は道そのものだとか。

まあでも、人生のBARは、故郷の町で迷い込んだ路地で、
仄かな灯りに気付いたことから始まっているわけでして…。
袋小路みたいな日々を過ごしていた若い頃に出会えた、
あの時の記憶が刷り込まれているわけでして…。
あの小さな灯りが原点と言えるのかもしれないし…。
あ、でもあの路地は裏路地でなく、行き止りの袋小路だった、かな。

あの頃の先の見えない袋小路を抜けて、長い道のりを経て、
路地裏にたどり着いた今、こんな人生もありかな、と思う。

令和六年 大都会の小さな花が愛おしい今に
栗岩稔