2024/03/12 10:00


1980年代から始まり世界を支配したインターネット社会。

勝手に決められて投げつけてくる情報が溢れ出るなかで、
感情が大きく揺り動かされることを初めて体験した。
仕事を終えた深夜の木挽町路地裏。
あと一週間で東北の大震災が発生した日になる。
もうなのか、まだなのか、複雑に13年間を思い起こしていた。

あの日の午後は小さな酒場で開店前の儀式にしていた、
自分のためのコーヒーを淹れて自分自身を確かめていた。
その直後のあの時間から全てが変わった、と考えながら帰路についた。

翌朝、自身のSNSを開いて驚いた。
検索したわけでもなく、深夜に考え、想いを巡らせただけなのに、
13年前のまだ誰も知らず、何も起こっていない日の投稿、
震災が起きる前のあなたはどうですか、と言っていた。
思い起こせと命令されているように感じた。

路地裏にあった酒場は、再開発という名のもとに、
ビルと周囲の高齢者がいた家屋共々、跡形もなくなっている。
生活の痕跡すら残ることなく更地になっている。
広く開けた土地の先に高層のマンションがいくつも覗く。

13年前に起きた大地震直後の大津波では、
沿岸地域のたくさんの家屋が流され、生活のすべてを押し流した。
20000ほどの生命が消え、町や共同体のカタチを変えた。
今年も震災が発生して、たくさんの生命と生活が消えた。
だから、13年前のことを忘れるわけもなく、忘れるつもりもなく、
ただ、薄れ行く記憶をもう一度思い起こすきっかけになった。

自然災害は町のカタチを強制的に変えて、人間は自ら変える。
どちらも、人のつながりを断ち切る
あたりまえだと思っていたモノやコトもなくなるという事実を知った。
そんな矢先に無意識に無機質なネットワークのアルゴリズムで、
導き出され投げつけられた問いかけに気持ちが大きく揺れた朝だった。

「友だち」がたくさんいると思い込んでいる「つながり」のなかで、
この先がどんな世の中になっていくのかは計り知れないけれど、
あの時のことは削除されることなく永遠にアーカイブされて、
この先いつでも画面上で見ることが出来るのだろうと思う。
それが、見た人の感情に訴えて意識を高めるきっかけになる、
それはそれで良いのかな、と思う。
希薄な人間関係になりがちな現代社会のなかで、少しだけでも。

過去を振り返ることなく、今と先のことを見てきたつもりでも、
過去がなければ今がなく、今がなければその先もない。
そんなことに今、もう一度想いを強めた。

この路地裏に戻ってきた去年の秋、
名も知らぬ近所の老婆に「久しぶりね。おかえりなさい」と言われた。
こんなささやかな言葉がうれしく、温かな気持ちになり、
この町でまた新たなフィールドで挑戦出来ることへの感謝を持ち、
また一日一日を大切に、今を積み重ねていこうと思えた。
見えないつながりではなく、目に見える温度のあるつながりを信じて。

「おかえりなさい」と言うつもりで送り出した人がいなくなる。
そんなことが、いつ何処でも起きうることを肝に銘じて、
今この場にいて、生きていることが決してあたりまえではないと、
自分自身に言い聞かせて。


先日、20年ぶりに訪れた春の雪に覆われた教会。
隣接するレストランで食後のデザートはテラスで歓談、
のはずが、テーブルの係が小さく彩り豊かな皿を運んできた。
あれ?と思いながらも目の前に置かれた皿の傍らに、
ホワイトチョコレートのプレートに「おかえりなさい」とあった。

20年前は生きているのがあたりまえで、
生きていればなんとかなると思っていた。
今は生きて、今ここにいることがありがたいと思える。
たくさんの春色の小さなデザートをお腹いっぱいいただいた。
涙が出るほどに美味しく、うれしい気持ちで胸がいっぱいになった。

外は透き通った青い空に雲雀の声が響き、
あっという間に消え行く雪がキラキラと輝いていた。

令和六年 あたりまえではない今に感謝する春に
栗岩稔