2024/03/05 10:00


原住民の言葉や風習を理解することなく、

初めて発見したと宣言した人物の名前が名付けられた
世界最高峰の山エベレスト、現地ではチョモランマ(大地の母陣)。

世界で初めてその頂を目指す英国の探検隊が着用していた衣類は、
ツイードのジャケットに厚地のウールバンツ、
ジャケットの下にはシャツを何枚も重ね着して、
足下はレザーシューズに滑り止めの釘を打ち込んだ、
と以前聞いたことがある。
植物性繊維よりも動物性のもののほうが、
保温、抗菌、撥水性に優れているから
ウールのものを重ねるということは想像出来る。
現代のように機能性に優れた素材がない時代に、
エベレスト(チョモランマ)を目指したことに驚く。

実際に自分が着用してきたツイードのジャケットは、
コートいらずの保温性、撥水、防風に適していたし、
Thorn proof という棘すら通さないという名の生地もある。
若かりし頃、アパレルにいた時から、
ツイードのジャケットは一生モノ、そう思っていたけれど、
どこかで、ウッディ・アレンのスタイルが格好良いなと、
表層的なカタチだけで着ていたところもあった。


啓蟄を迎える前に衣類を冬支度から春支度に入れ替えた。
そのなかには、この冬に修理をしてサイズバランスを整えた、
ハリスツイードの緑色のジャケットもあった。
来年の冬のお楽しみのために大切にしまった。

ベージュのチノパンツにダンガリーシャツ、
上着は緑色のハリスツイードのジャケット、
首にはキャメル色のカシミアのストール。
その姿を今でも鮮明に覚えている。
久しぶりにハリスツイードのジャケットが格好良いと思った。
誂えた服しか着用しないその人の体型に合った、
そのスタイルに憧れた。
数年前にその人が亡くなり、形見分けとしていただいた。
ありがたく頂戴して引き継いだものの、
命日に袖を通すぐらいで、しばらくの間はどこか気が引けて、
自分の年齢にもスタイルにも早いような気がしていた。

55才を迎えたこの冬、しっかり直して着ることにした。
もうそろそろ着ても良い頃だと思えたし、
この先着ることが出来る、残りの年数も考えた。
あの人の真似ではなく、自分のスタイルで着ると決めた。

着用回数が増えると改めて気付きがたくさんあった。
チャーチルサイズのシガーがちょうど収まるポケット、
腕の長さに合わせたチェンジポケットの位置と形状、
古くから使われていた裏地専用のホンモノの素材。
細部にそのスタイルが表されていた。
それを最高の技術で仕立て上げた、
作り手の「着る人を想う」気持ちが縫い込まれていた。

この冬たくさん着た。たくさん着て自分の身体に馴染ませた。
もともと、ジャケットが自立するぐらいに固く、
丈夫な素材だからこそ、馴染んできた体感が心地好かった。

自分のその時には、誰かに引き継ぐことはないけれど、
人生を共にして最期まで着用出来ると思った。
そのために体調管理をして体型維持をしようと思った。
血圧とか血管とかも気にかけなきゃ、と思いながら、
ブラシをかけて、高温の蒸気でプレスをして夜風にさらした。
朝、夜風に冷えきった緑色のハリスツイードのジャケット、
また来年の冬を楽しみにしまった。
残り15回の冬の楽しみがまたひとつ増えた。

令和六年 春支度の啓蟄に
栗岩稔