2024/01/16 10:00

もう30年になろうとしている阪神淡路大震災。
早朝に発生したあの日を明日に控えている。
今年もまた、年明け早々どころか元旦の家族団欒の時に
能登半島沖を震源とする大地震と大津波が発生した。
大きな自然災害が起こるといつも思うことがある。
瓦礫、瓦礫って言うけれど…、瓦礫って…。
「瓦や小石、コンクリートの欠片、石ころで、
何の役にも立たないもの。価値のない、つまらないものの集まり」
もちろん、廃棄するしかないから瓦礫なんだろうけれど…。
災害の後の瓦礫処理問題などの言葉にも切なくなる。
そのほんの少し前までは価値のあるもので、
つまらないものの集まりではなく、とても役に立っていたはずで、
人の生命を守っていた大切な瓦や壁や柱、崩れ落ちると瓦礫となる。
ただ、現地の人や行政、消防、警察、自衛隊の人々が、
ひとつひとつ丁寧に確認しながら片付けをしている姿には救われる。
その中には家族写真もあるだろうし、手紙もあるだろうし、
家財道具も生活必需品も日用品も衣類もおもちゃもある。
人類史に必要な貴重な資料や古文書もあるかもしれない。
数多くの災害被害にあった資料をひとつひとつ、一枚一枚を
丁寧に修復して保存しいる機関があって、携わる人々は日夜、
増え続ける資料を後世に残すための作業をしていると聞いた。
瓦礫という言葉でひとまとめにされていないことに安心しながら、
被災地に行くこともせず、何もしない、出来ない自身の無力を知る。
新しい年のはじまりの日に300近くの人の生命が失われた。
30年近く前の震災で6000以上、15年近く前には20000以上、
人類が抗うことの出来ない自然災害で失われた生命の数。
初夢をみたであろう日に、人間の取り違えから生まれた事故。
そこで失われた生命の数が5、失われなかった生命の数が379。
方や、人間同士の憎悪から生まれた争いで失われた生命の数は
同じ民族が暮らす、小さな小さな地域だけで20000.。
人間が生み出す瓦礫と自然が生み出した瓦礫。
同じ瓦礫でも、その意味は全く違う瓦礫と瓦礫。
けれど、失われた生命は全く同じ人間の生命。
これだけの人の生命の数が数字として表されるこの世の中。
80年も前に2000万の人の生命を犠牲にして勝利を唱えた独裁者。
今それを正論とし、軍隊を率いて国民を犠牲にしている指導者かいて、
徹底抗戦を宣言して領土と国を守ろうとしている指導者いる。
正義とか報復とか制裁とか、人間の憎悪の歴史で失われる生命の数。
ひとつひとつの生命の先には家族がいて友人がいて、つながりがあって、
数字ひとつでは表すことなど到底出来ない数になる。
著名な指揮者が言っていた。
『今、世界中で「私が、私が」という言葉が多い気がしています。
かつては多く使われていた「私たちが」という言葉、
そういうものが少なくなっているように思います。』と。
もちろん「私」は大切なことだと思う。
ただ「私たち」がいる共同体のようなもの、
そこに生まれる利他性のようなものが必要だと思うし、
その共同体で費やす時間、その時間そのものが大切で、
儚くて、ありがたいものだと強く思う。
今回の震災で目に焼き付いている光景。
重くて固くて強い漆黒の能登瓦。
家族を守っていたであろう屋根の上で砕け散り、
朝日を浴びて黒々と光っていたあの光景。
役に立っていたはずの強い瓦が瓦礫になった光。
55才という新しい年を迎えられたということに今一度感謝して、
鈍く、くすんで、わずかな光でも、今を生きていこうと思う。
空港で起きた事故で失われなかった生命の数分間。
それは「私が、私が」ではなく「私たち」として、
煙の充満する機内でひとつの共同体として行動した、
そのことがひとつも失うことなくいられた要因のひとつだと。
策略や憎悪や人災で失われる生命の数が少なくなり、
自然の脅威を受け止めて、共存していける世の中、
そんな「今」になっていくことを願う、1月16日に。
令和六年 切ない知らせばかりの新春に
栗岩稔