2023/08/18 14:21
栗岩稔と人間学
第七回
「生きるとか死ぬとか考えたことってありますか?」
蝉の声に包まれる千鳥ヶ淵の九段坂 GOTTA STUDIO に集まってくれた
ー今回の参加者ー
○ITコンサルティング企業でグループをとりまとめをしながら、日々スキルアップをする Uさん(以下 YU)
○都内小学校で担当教諭として子供に向き合いながら日本画家としての表現者でもある Uさん(以下 CU)
○世界に繋がる港湾を軸に様々な人を迎える準備に励みながら日々を楽しく幸せに生きている Iさん(以下I)
○大都会で必死に生き抜いてきたことを実感している栗岩(以下 栗)
死を目にすること
栗: みなさん、暑い中ありがとうございます。
人生そのものを見つめ直したい後半の第一回目のテーマは
「生きるとか死ぬとか考えたことってありますか?」です。
私自身、子供の頃から死について考えていたことが実際にあって。
CU: 子供の頃?何かあったんですか?きっかけがあったとか。
栗: 友だちが目の前で事故に遭って亡くなったんです。10才の時に。そこからですね。
死ぬってどういうこと?って考えるようになって。あの時の印象は、世の中からいなくなることなんだなって。悲しみとかは遥かに通り越してしまった。
そのあとに考えたのが、中学の時に読んだ夏目漱石の「こころ」。
そこからずっと、考えて考えて出た答えが、生きることは死ぬこと、なんだなって。
死ぬために生きているっていう感じ。悲しみ、苦しみに捉えているんじゃなくて。
死に様のために生き様があるんだなって。
YU: 言葉としてはよく聞きますよね。死がゴールとか、死に向かっているとか。
全く実感はないですけど。
栗: そうそう死に対する実感はないよね。
自分が好きな本で「夏の庭」っていうのがあって、児童文学なんだけどね。
三人組の男子のうちのひとりが、おばあちゃんの葬式を見て、死を考えるきっかけになって、独り暮らしで近所では死にかけていると噂されている老人を見張ることになって、
少しずつ交流が始まって夏が過ぎていって、彼らも成長していくっていう話なんだけどね。死を見る経験って大体が葬式じゃないのかな、事故や自殺の現場は別にして。
子供たちが初めて「死」を見て、興味を持って彼らなりに考えていく話たから面白いですよ。学校ではどういう風に教えるっていうか、接しているんですか?
CU: 私はクラス担任を持っていないから、直に接する機会は少ないけれど、
この前、私の授業で、死にたいって言っている子供がいましたね。10才の賢い子供なんだけど。本気で言っていない場合もあるし、そうでない場合もあるし、難しいですね。
聞き流して良いことでは決してないなって思いますね、重大な話題だし。
栗: 子供たちにとって今の時代は、死が身近にあるじゃないですか?
CU: そうですね。前よりずっと身近にありますね。だから感覚的な何かを持っていますね。
栗: ついこの前も遺体を切断した事件とか。ゲームみたいな感覚でリセットしてみた、みたいなことも。
何かすごく切ないですよね。動機として、殺してみたかった、とか言うでしょ。
それなんですか、理由は!って面と向かって問い質したいけどね。
最近は、事件、事故、災害、コロナもそうだけど人数を数える「死」がたくさん身近にあって、
だから、子供たち、大人もだけど、おかしな方向に出てきちゃうのかなって。
CU: おそらく、私たちが子供の頃よりも色々な死があるっていうか、そうかもなって思う。
だから、生き返れるみたいなことを言っていることを重い問題として、親も本気で心配しているかな。
栗: リセットってすごく恐い考えだよね。
YU: 僕は昔からゲームをやっていますけど、昔と今の言葉が違ってきていて、
前は倒れる、やられるが「死」だったんですけど、今は気を失うとか書かれていて、
死んでいなくて、戦えなくなったという表現に変わっていますね。特にメジャーなものは。
1995年ぐらいの頃は「死」だけど、最近では「後ろに引っ込む」「その場からいなくなる」
みたいな表現になっていますね。生き返るじゃなくて治す、みたいな感じですね。
CU: 親とか保護者に指摘されたら売れなくなっちゃうからね。
YU: リセットというところは無くなってきてますけど、まだまだかもしれないですね。
まだ一部だから、死んじゃってもリセット出来るという表現は無くならないかもしれないですね。
予告された死
CU: YUさん自身は考えたことありますか?
YU: これまでこの会に参加する前に自分なりに考えて答えを出してきたんですけど、
今回は全くないですね。生死について考えたことはありませんって感じですね。
目にしたことのある最初の死というのは、やっぱり祖父の葬式ですね。
二人とも亡くなっているんですけど、縁がなかった祖父の時は、亡くなったから葬式に行く、
そういう行為だけでしたね。「あ、そう」みたいな。もう一人は、割りと付き合いもあって、
癌で亡くなったんですけど、その頃の自分は、癌はもう助からないものだという知識はあったから、
助からないということを解ったうえで、意識も無くなってきていたから、
話しも出来ないし、もう死んでいるようなものだなって感じたことは覚えていますね。
何かそんな風に考えていたので悲しんだことはない気がしていますね。
自分の死については、いつ死ぬのかをはっきりして欲しいなって思いますね。
70才なのか90才なのかって、結構な振り幅じゃないですか、だから人生設計とか言われても、
無理でしょ、みたいな。だから何となく80才ぐらいかなって思っていますけど。
だからって、そこを見据えて、どうのこうのっていうのは一切考えていないですね。
お金とかは生活が困らないように準備していますけど、何かこの先死ぬまでの期間が、
厄介なことと考えているかもしれないですね。
自分の死については、そんな風に考えてきていますね。学生の頃あたりから、ずっと。
栗: 社会全体の問題になっている年金とかの保障については、もう国には頼れないしね。
こんな大変な状況になってきているなかで、それを考え出して、生きる希望が持てなくて、
切なくなって、もういいよって独りで死んでいく老人がたくさんいると思うんだよね。
自分は幸い家族がいて子供がいるから、そこに責任も発生しているから、
もう少し、もう少しって生きているけど、独り身だったら、多分、もう良いんじゃないかって。
そう思う瞬間が来るんじゃないかな、とも思うね。何となく、そんな風にも思ったり。
YU: 今、55才でしたよね。そうか、55才か。
CU: 私は自分で決めたいかな。自分で、ここで、もう死ぬって。だから今から死に方を考えている、かな。
栗: ボタンみたいなスイッチ、でしょ。
YU: めちゃめちゃ手軽な安楽死みたいなものが欲しいですね。
CU: 私は国に頼るのはイヤだから。ただ、今この時だから言えることかもしれないし、
もう少ししたら、もっと生きたいって思うかもしれないな、とも思うし。