2023/07/18 10:00
先日、テーマを「雑談」にした
定例の面談があった。
会話のきっかけ作りのための
ひと言、ふた言が大切で、
その後の信頼関係の構築につながり、
コミュニケーションの始まりのために、とても大切。
そんな話しをしたなかで、
声の大きさの話しも出た。
雑音になってしまう雑談、
耳障りな大きさはもってのほか。
周囲との調和を図り、
声のトーンを意識することによって、
穏やかで、冷静な判断で
会話が出来ます、と話した。
その夜の酒場で、木材の専門家の男性と
興味深い会話がはじまった。
もちろん、きっかけは雑談から。
自然との調和、地球の引力、
月と潮、現代人の感性の欠如。
かねてから自分で考えていた
物事の答えが会話の中にあった。
ただ、どうしても聞き取れない言葉もあった。
小さな酒場の別の場の大きな音量の会話。
音を楽しむ仕事のはずなのに、
それが出来ない耳障りな音。
その音に遮られた。
耳障りというよりも、耳が痛かった。
使い方が違うけれど、
本当に耳が痛く、耳が疲れた。
閉店後、すべての音を遮断した。
空調も止めた。
閉店後の楽しみにしていた大好きな音楽も止めた。
日付けが変わり、
ビルの灯りも落ちた頃にようやく耳が落ち着いた。
一日の終わりの煙を纏った時、
深夜の蝉の声に気付き、
もう何年も前の夏のことが思い出された。
大人のための縁日をテーマにした
商品開発のなかで、
江戸時代から続く伝統工芸の風鈴に着目した。
風鈴は、今でこそ涼を楽しむ夏のイメージが強く、
夏の風物詩と決めてかかったかのように、
至るところで、風鈴を並べて
イベントとして開催しているのを見かける。
そもそも風鈴は古代の銅鐸に起源を持つ、厄除けの役割で、
暮らしの中での心の拠り所として、
なくてはならないものだった。
その金属製のものが
ガラスでも作られるようになって風鐸になり、
季節を問わず室内には
厄除けのために必ず一つはあった。
それが音を重視して風を求めて軒先に出て、
夏の風物詩になった風鈴。
その、江戸時代から代々続く技術を継承する職人に会いに行った。
地元出身の彼は、
小学校の社会科見学で初めて訪れた工房で
その仕事に感銘を受け、義務教育が終ると同時に
当時の親方に弟子入りを願い出たという。
だが、学業の大切さを説かれ、
高校卒業と同時に弟子入り。
それから数十年が過ぎた今、
工房を任され、継承しているものの
満足のいく形はなかなか出来ず、
温度や天候と自身と対話しながら、
ひとつひとつ作っている。
自分のカタチを求め続けながら、
江戸から続く技術を伝えながら。
気安く声をかけることが出来ず、
黙って仕事を見ていると、彼が語りだした。
「栗岩さんね、最近ではマンションばっかりでしょ、この辺りも。
マンションの部屋だとね、
風鈴の音が騒音らしくて苦情が出るらしいですよ。
だから、なかなかね、こうやって一つ一つ大切に作ってもね…。
イベントとかおみやげで売っているのは
工場で機械が作ったものですよ。
あれはやっぱりね、音が違うんですよ、
冷たい音ですよ、冷たい音。
こっちはね、温もりがあるんですよ。
夏に温もりっていうのも変ですけどね」
と淋しそうに笑っていた。
たしかに、風鈴に感じる涼は
日本人独自の感性で脳の神経細胞が指示を出していて、
他の国の人には感じることがなく、雑音に感じる人もいる。
という実験データを思い出したものの、騒音、苦情って…。
彼が納得出来ずに粉々にした美しいガラスの山が悲しく見えた。
もう十年近く前になるあの夏のことを、真夜中過ぎの蝉で思い出し、
時代とともに上がる気温に対応出来ない人類を傍目に、
変化する気候を感じとって生き抜いているその声に何だか安心した。
そういえば、うるさいって「煩い」と「五月蝿い」があるけど…。
どっちなんだろ、現代社会では…。
令和五年 蝉の声ってうるさい、ですか?
栗岩稔