2023/07/16 12:17
栗岩稔と人間学
第6回幸せってなんですか?
―今回の参加者―
○今回初めての参加。これまでの模様はすべて熟読されていて、
東京都民を幸せにする仕事に従事しながらも職場で目にする富裕層に、
幸せってなんだろうと思うこともあるというIさん(以下I)
○ITベンチャー企業勤務で幸せを求めるFさん(以下F)
○ITコンサルティング企業でチームを取りまとめながら幸せの時間を楽しむUさん(以下U)
○日々勉学に励みながらも哲学的な観点で物事を洞察するWさん(以下W)
そして、大手ゼネコンから独立し個人で設計士として活躍する、
○日頃から幸せそうなSさん(以下S)が遅れての参加となりました。
直球質問です。 みなさんの幸せって?
栗岩(以下栗) みなさん、こんにちは。今回のテーマはずばり直球です、が、
私からのはじめの投げかけとして映画にまつわる話から。
ウィル・スミス主演の「幸せのちから」ロバート・レッドフォード主演の「幸福の条件」とか、
邦題で幸せの表現がある色々な映画の作品があるんですけど、
漢字の「幸」という成り立ちから考えてみると、この字は中国由来の象形文字だそうですね。
元々は「手枷」の形から来ていて、古来、厳し過ぎる刑罰で人民を統制してきたなかで、
手枷だけで処罰を免れた、手枷をはめることを免れた、ということから、
生死のなかに手枷という一部の望みを持てたことを意味していたらしいです。
それが転じて不自由で困難な状況のなかにも一部の望みを見出だすことが「幸」なんですって。
そう考えると日本映画で高倉健が任侠ものからの脱皮を図って主演した後世に残る名作、
「幸せの黄色いハンカチ」が一番日本人の感覚に近い幸せなのかなって。
日本で「幸せ」という漢字を広く使うようになったのは江戸時代以降で、
それまでは「仕合わせ」と表記していて、めぐり合わせる、動作が合うという意味を持っていて、
日本とそれ以外の国の感覚の違いなんかも考えてみたりもしてますね、今日は。
強く幸せを求めている感じがするFさん、どうですか?
F: 何を持って幸せというか、ですよね。
家庭を持つとか、持たずに自分のやりたいことを突き詰めていくとか、
お金があれば幸せかって訊かれたらそうでもないて思うし。
色々考えてみたんですけど、やっぱり難しいですよね、幸せって。何を持っての幸せかの答えが出ないんですよね。
あえて言うなら、その人がやりたい事をやり続けていられることが幸せなのかなって思いますね。
そうは言っても、自分が幸せかって訊かれたら、幸せなのかもしれないんですけど。
わからないですね、幸せの度合いにもよりますしね。
栗: Iさんはどうですか?
I: 私は毎日が幸せですね。HAPPYですよ。
栗: それって、どういう時に思うんですかね?
I: 例えば今日もここに来る時に美味しい珈琲が飲めるぞとか、楽しい時間が待ってるぞとか、
そういうワクワク感も幸せ、HAPPYな感じですね。
栗: まあ、でもそういうことなんだよね。
I: 幸せって自分で何をしている時が幸せかを知っているか知らないか、じゃないかと思うんですよ。
みなさんが思っている幸せの時って同じかもしれないし、違うかもしれないし。
自覚していると、そこに自分を持っていけるので、逆に辛いことは避けるようにすることが出来るし。
栗: そうか、自覚しているから、その幸せの状況に自ら持っていけるんだ。
I: ただ避けてきた状況の先に、もっと幸せなことがあるのかもしれないですけどね。
W: 僕の場合は、そうですね…。
幸せが何なのかっていうのはわからないですけど、あれこれ考え出すと幸せじゃなくなるよな、って。
栗: 幸せを考え出したら不幸せになる、みたいな、ね。
W: 中途半端な状態で考え出すと、行き着く先がパンドラの箱というか、不幸ばかりが出てきちゃう気がしますね。
U: 実は今日はじまる前に栗岩さんと話してたんですよね。
幸せを考えだすと不幸になるよなって。でもホントそうですよね。
栗: Iさんみたいに、あ、この瞬間が幸せっていうのもあるよね。
自分だったら、ガード下のモツ焼き屋で煮込みとウーロンハイ、みたいな時に、あ、幸せだな、みたいな。
方や映画の話みたいに深いところを考え出して悶々として、かえって不幸な気持ちになってきて眠れなくなったり…。
幸い自分には発信する場があるからそこで消化しているところもあるし、
そこにあえて追い込んでいったりすることを楽しんでいたりしている自分がいたり、
でも人を相手にする仕事だと、その人たちが喜んでくれることをすることが幸せだったりするし。
U: 前回もそうでしたけど、言葉の力や強さや重みがありますね「幸せ」だと。
F: その言葉の重みに引っ張られたりすることもありますよね。
幸せはどこにあるのか。
W: 結構昔の話、約2000年前から言われていることなんですけど、古代ギリシアの話で、
アトラクシア、心の平穏、平静と訳されるんですけど、そこに至ることが理想である、
と言った人たちがいるんですよ。その中のひとつにピュロン主義というのがあって、
「エポケ」判断を停止するべきだと提唱したんですね。
要は、考えていてもその結論には達しないので、だったら、
スパッと考えることをやめちゃったほうが良いんじゃないか、という考え。
そういう考え方って、禅でもそうだと思いますね。曹洞宗ですけど、
座禅を組んでいる時って色々考えちゃうじゃないですか。
それをどうするかっていうと、それを追い求めちゃうと、続けていっちゃうから、
やめてくださいって言うんですよね。続けることはしないで、また出てきたら、
またやめてくださいって、ぶつ切りにしていくんですよ。
栗: それってWさんが学んできた哲学的な思想だよね。
W: そうですね。色々共通しているなって。考えることをやめるっていうこととか。
U: 哲学ではないですけど、僕は最近、瞑想するようにしていて。
瞑想していて浮かんでくることを追いかけることが大事だったりするんですけど、
追いかけると無になれないっていうか、追いかけないと落ち着くというか、
不安も払拭されて良いんですよね。なんか瞑想のアプローチと似ていますね。
W: 瞑想はマインドフルネスだと思うんですけど、元来あった座禅とかを
よりメソッド化して導いていく感じですよね。日常的に取り入れるにはどうしたら良いかっていう。
修行ではなく手段として取り入れるために進化していったものだと思いますね。
栗: 哲学とか瞑想って思想的な学問になるのかな?
W: 瞑想は手段なので方法論というか行為ですよね。
U: 哲学から抜き出して日々取り入れたら良い事ということですよね。
思想家とかのものではなく、使えるようにしたもの、なんでしょうね。
あれ、なんか今、幸せのところから、思想のところにいってますね。
栗: いやいや、良い話ですよ、とても。
国が定める幸せの言葉って?
栗: ところで、Wさんに聞いてみたかったんだけど、どの国にも法律ってあるでしょ。
国民の幸せ、的な。あれってどうなんだろうなって。国が定めることなのかな、みたいな。
W: 幸福の追求ですね。
U: どういう風に書かれているんですか?
栗: アメリカの独立宣言書には幸福の追求って明文化されているよね。日本でも国民の幸せを云々って。
W: そうですね。日本では憲法第13条にありますね。幸福の追求権っていうのが。
名前は仰々しいですけど、要はそのあとに続く表現の自由だとか、生存する権利とか、
そういったものが書かれているんですけど、そこに書かれているものだけだと、
時代の変化や発生する事案に対応できなくなることへの受け皿として、
包括的基本権っていわれてますけど、そういう個別に書かれていることでは補えないこと、
今ではプライバシー権もそうですけど、その受け皿として第13条があるんですよ。
栗: 受け皿というか、逃げ道というか…。
W: そうですね、ポジティブかネガティブかの表現の違いですけどね。
幸福追求権という言葉につられちゃうと実態にそぐわない部分が出てくるかもしれないですね。
栗: 日本の法律にあったよな、そういえば、って今回思ってたんだよね。だから聞いてみようって。
U: まさに真逆ですね。考え出したら不幸になるから考えない。
方や明文化しちゃってますからね、国が権利として。