2023/05/16 10:00
何年も前の南の島の夏の
はじまりの午後。
掃き清めた店先で
水滴を纏った月下美人に会った。
水撒きをする美しい白髪の
凛とした女性に出会った。
仕事で訪れた南の島の初日の
夕餉に来ることに決めた。
島の暮らしには早すぎる誰もいない店内、
夕陽差し込むカウンターの端に座った。
破格の安値に戸惑いながら、
生ビールで喉を潤す。
きれいなグラスに残る泡のリングが
二つ目の頃の突き出し、
飲み切る頃に出される地の刺身。
地域特有の甘めの醤油と
白身魚にはきび酢の味噌で。
少量生産のために本土には流通しない
島の黒糖焼酎。
目の前におかれた瓶一本、
ほど良い甘味のその旨さ。
そして、おかみ特製の
郷土料理の数々で腹を満たす。
夜が更けるとともに集う島の人々。
カウンターもテーブル席も埋まり、
賑わいが満ちる店内。
華やかに切り盛りする
おかみと島の人々の柔らかな会話。
通訳を要するほどの
島の言葉と本土の言葉が入り交じる。
誰ともなくはじまる島歌と
踊りの心地好い時間に酔う。
酌み交わした酒と言葉で
夜に溶け込み、島に馴染み、
目の前の空き瓶とともに一日を終える。
翌朝、海に飛び込み、
海水に溶け出すように酒を抜く。
月に一度の心地好い夜を重ねたある日、
珍しい物をいかが、と出されたお浸し。
花が咲くことすら珍しい、
月下美人のはかなき花。
特製酢味噌でいただくお浸しで
進む酒とやさしい時間。
仕事が終わり、島に行く理由が失くなり、
酒場の時間が終わって、
夏が終わった。
毎月通った南の島の青い海、
青い空、濃い緑より、
強く強く記憶に残る酒場の景色。
先日、ご無沙汰している
美容室を久しぶりに訪ねた。
島を訪れると聞いた時に
色々と紹介した美容師、
「あー良かった。
預かっている物があるんですよ。
そろそろいらっしゃらないかな、
なんて考えていたところで」
「預かっているって…?」
「あのおかみが渡して欲しいって…」
「えっ、あのおかみって?
だって、名乗らず、名刺も置かずですよ。
しかも、もう何年も前のことだし…」
「長髪で髭で東京から仕事で来ていた人の
紹介ですって言ったら、
すぐに思い出したみたいですよ。
よほど印象強かったんじゃないですか?」
「いやいや…。でも嬉しいですね、
ほんの数回だったのに、
覚えていてもらえるなんて」
「はい、これです。
海で採ってきて、
おかみが作ってるんですって」
渡された小さな小さな貝殻のキーホルダー。
耳にあてて潮騒を聞くことは出来ないけれど、
きれいすぎて、青すぎて、透き通りすぎて、
自分が恥ずかしくなるほどの美しい海。
その海を届けてくれた小さな小さな貝殻。
名も知らずとも語り合い
酌み交わした酒場の時間。
店の名前について「寄り合い所」の意味だと、
おかみが微笑みながら言っていた。
そんな酒場が良いと思う。
また島に行こう。
おかみに会い、海に会う、
そのことを理由に。
もちろん酒も。
令和五年 ポケットの中に南の島を感じながら
栗岩稔