2023/03/28 10:00

住まいにしている集合住宅の片隅に喫煙所がある。

毎朝毎晩、はじまりとおわりの一服を楽しみにしている。

その喫煙所の傍らに目隠しのように柿の木がある。

春夏秋冬の移ろいを柿の木を通して楽しみにしている。

 

いつもそこにある柿の木。

青々とした若葉を揺らす春。

暑すぎる東京を耐え忍ぶ夏。

台風の雨風に耐えた実りの秋。

大雪に折れることのない冬。

 

「桃栗三年柿八年、お前は?名前の通り三年?」

「えっ、あ、どうでしょう。まだまだ、ですね」

と答えた23才の春を思い出した。

あの時も喫煙所だったな、などと思いながら、

やっぱりそこには、柿の木がある。

 

いつもそこであいさつを交わす老夫婦がいた。

大きな大きな同じ屋根の下、何階に住んでいるかも知らず、

老舗の寿司屋の主人と女将というだけで、名前も知らず。

その老夫婦がこの春に引っ越しをした。

地方の静かな町で余生を過ごすとのこと。

その朝も、最後のあいさつを柿の木の前で交わした。

 

生きとし生けるもの、常にそこにあるとは限らず、

諸行無常という言葉をふと思い出すこの春も、

散り行く花々が咲き乱れ、南風に揺れている。

 

目の前の柿の木も小さな若葉が芽吹いてきた。

今年もきっと実を付ける。

と、いうことは八年以上?などと思いながら

 

土のない都会の集合住宅の片隅で、

幹は太くなく、枝振りも良くなく、背丈も高くないものの、

毎年、毎年、実を付けている。

 

この木のために作られたと思われる大きな鉢。

年月と風雨にさらされ、傾き、ひび割れた大きな鉢。

誰かの手によって守られ、補修されながら、そこにある。

たくさんの人が行き交い、気にかけられることすら少なく、

きっと、ここでなければ枯れ果てたであろう柿の木。

でも、誰かの支えによって生き長らえて、そこにある。

 

この春、上手に伝えることが出来ずに、ひとつの事を終える。

いつまで経っても上手く出来ないものだな、と

反省したり、後悔したり、悶々としたり

 

人やモノは流れ行くものだから、と分かってはいるものの、

「なんだかな。」というのが今一番似合いの言葉かと。

 

人が暮らす町がそこにあり、決して一人では生きていけず、

良くも悪くも人間関係があり、何かが影響を及ぼしていて、

独り善がりは駄目だと、改めて気づかされたこの春。

 

人やモノに真摯に向き合い、

ひとつのモノ、ひとつの言葉、ひとつの音、一杯の酒、

どこかで誰かが受け取り、受け入れることを考えて、

責任を持って発して、伝えていこうと

 

「桃栗三年柿八年、お前は?」

「五十四年経っても、まだまだ、ですね

 

里山には、人と自然が共存するための「木守柿」がある、

町の柿の木は、「見守柿」かしら

 

令和五年 菜種梅雨に若葉潤う朝に

栗岩稔