2023/02/24 23:01
-「歳を重ねること」と、「生きること」は同じではない。
わたしたちが奪還しなければいけない「人間」の根源とは。-
栗:下川さんとSさんに逆に聞きたいけれども、歳を重ねたい? 例えば、芥川や太宰を読んだりすると、ふたりとも自殺している。捉え方によっては、彼らは歳を重ねることを避けた、とも言える。
下:僕は、自分が「今だな」と思う時がくれば、その時に死のうと思っています。歳を重ねたいというよりかは、自分の「今だな」がきた時に死ぬ。正直、いつでも死んでいいと思っているけれども、今は、まだだな、という感覚が自分の中であるから死なない。これが例えば、3年後とかに、今だな、と思うことがあれば、おそらく僕はその時に死ぬだろうと思いますが、それが20年後かもしれないし、50年後かもしれない、ということ。エリック・ホッファーさんの言葉を借りれば、「死に時」を持っているとも言えるかと思います。
栗:自分も、今の話は腑に落ちるところがある。「死ぬ時に笑っていればいいや」という考え方をしだしたのが、中学生の時だった。
下:今の死生観を持った経緯を話しますね。昨年の9月頃に、ドストエフスキーの「罪と罰」を読みました。太宰治の「人間失格」の中にも、この本のことが書かれていて、人間失格の主人公の大庭葉蔵が、ドストエフスキーは“罪と罰”をアントニム、対義語で考えたのではないか…?という思索をしている。それを読んだ時に、ちょうど僕も、人間の行為における、“能動と受動”について考えていた。例えば、Sさんともよく話をしますが、僕らは小説家を志しているとは言っているけれども、正直にいうと、小説家になりたい、わけではない。書かなければいけない、という強い使命感みたいなものを感じています。
S:そもそも、僕らが書いている物が小説なのか…、ということも定かではないんです。
下:この書かなければいけないという使命感は、義務感とは違うけれども、決して僕らの能動的な働きとはいえないと思う。「使命。命に使われている」。また、生命、という言葉を取り上げますけれども、僕の当時の感覚では、「生命。命に生かされている」という感覚があった。これも、生きるということについて、僕らは能動的な行為だと思い込んでいるけれども、能動的な行為ではない、かもしれない。そこで、罪と罰の話に戻りますけれども、罪と罰は、能動と受動、さらに、死と生、なのではないかと考えたわけです。そう考えると、僕らがこの世で、唯一能動的に行える行為は、死、つまり自殺しかないのではないか…と。
S:下川さんと一緒に考えていたときに絶望を感じ、偶然ですが、この話をした翌日に、ふたりとも同じタイミングで涙を流していた、というような経験をしました。
下:けれど、そのあと会った時に、「いや、自殺ではない。このままだと、自殺すらもさせられていることになるかもしれない。ここから人間として、どう生きて、どう死ぬかだ」と、ふたりとも生きることに決意を改めたんです。この先、やらなければいけないこと、やらざるをえないことは、自分の中で決まっている。だから、簡単に言えば、「いつ死んでもいい、その時がくれば」という考え方を持っています。
Y:その“気づき”は、とても幸せなことですよね。原住民の話に戻りますけれども、彼らは、移動をしているときに、テレパシーで言葉がなくとも会話ができるということが、本の中で書かれていた。まさに、下川さんとSさんの涙の経験のように。一緒に「罪と罰」という本を読んで、一緒に底まで落ちて、また、這い上がってきて。離れているけれども、繋がっている。だから同じ時に涙を流す。僕は今のお話を聞いていて、その涙は一種の浄化の涙だと思った。でも…、死なないほうがいいと、僕は強く思います。
下:その一件から、思考も文章も急激に質が上がってきているので、死ぬべきではなかったんだなと感じています。
Y:僕の持論ですけれども、幕末と同じようなことが、今の時代起きているのではないかと思うんです。時代の変革期。ITなど、人間が作り出した電子的なものは、もう一頻りやって飽和状態だけれども、結局、人間にとってどうなの?と疑問を抱いた人たちが、次の新しい時代をつくっていく。その中で、まだ既存の社会からの根固め的なものに寄りかかっているだけの人は、簡単に淘汰されていくと思う。僕も、パラレルワールドみたいな世界に入ってしまうと、執着や囚われをいかに排除していくかという、禅や釈迦のような世界に足を踏み入れていくんです。僕なんかは、力づくでとにかく頑張る、という生き方をずっとしていたわけですけれども、今は、何もしないことの喜び、自然との触れ合い、そういう自然の歓びに気づくことができました。
下:僕は、本を読んで、考えて、書くことしかしていないので、携帯もほとんど見ないし、正直にいうと世間のことは何も知らない、関心がない。時計もほとんど見ないから、自分が何時に寝ているのか、何時に起きているのかもわからない。吉祥寺の井之頭公園のすぐ近くに住んでいるのですが、朝起きて、通っている喫茶店までの道のりで井之頭公園を抜ける時に、空の色、雲の具合、鳥の鳴き声、水の音、太陽に照らされた樹皮の色など、その毎日の、その時の自然の微妙な変化を感じることで生きていますね。
Y:僕も日課の散歩をするときは、陽の傾きから、今は何時くらいだなとか感じている時が、とても幸せを感じる。そういう自然との触れ合いからの喜びを知ると、自分の普段の日常生活もそうですが、それを取り巻く現代のあり方も、色々と考えさせられることがある。時間の概念も本当はない、という話もありますから。そもそも、概念自体、人間が作りだしたものですからね。
下:「資本論」を書いたマルクスも、唯物史観という考え方をしていましたけれども、社会が変わるときは、社会を変えたいという人間の意志が社会の変化を促すのではなく、社会の物質的な生産関係などの側面で限界が生じて、それによって自然と社会が変化していくと。Yさんが、幕末のような時代の変革期だとおっしゃっていましたが、まさにその限界を迎える時が、刻々と迫ってきているように感じます。
Y:これから、楽しみですよね。
栗:世界的な経済学者、思想家がみんな言っているけれども、アメリカを中心とした資本主義はほとんど崩壊している。だから、ここ数年で大きく変わると思う。
Y:日本の時代が来る、なんてことも…。日本人はもともと、自分たちで畑を耕して、川に魚を取りに行くなど、農耕が主だった。これから日本人は、本来の姿に戻って行くのではないかな。
下:Sさんが少し前に、「人間を取り戻さなければいけない」ということを言ってくれたんですよ。
S:人間を奪還するのが、ひとつ自分の中でテーマになっている。なかなか、言葉では説明しにくい部分ではありますが…。自分の中で探求していかなければいけないなと。
Y:原住民を見ていると、やはり野生の動物と一緒なんですよ。必要以上に食べ物を摂取しないとか。そこで僕らのことを考えてみると、僕らも動物でしょう? じゃあ、動物的に生きればいいのでは?とも、僕は思わないわけです。そこに理性というものがあり、知を持った動物である人間。人間らしく、という言葉は、野生の動物的なところに回帰させるものではあるけれども、そこに理性や知性を伴った自分たちの経験から得られたものをつなげることができれば、人間になる、のかなと思う。
S:僕は極端なところがあるので、全員が、野生の動物的に回帰するとか、自然主義とか、懐古主義といったように、極端に戻るような形を取り出すと、人類は滅亡すると思う。だからうまい具合に、なんとかね…。
Y:この会にいる人も、みんな同じじゃない。個性がある。
下:教育の始まりも、近代化のために。
栗:近代化、という名の洗脳。やはり、よく取り上げるけれど、戦争はひとつ大きなテーマで、現代を生きる我々は考えなければいけないよ。小学校の時に、すごい違和感だったのが給食。自分たちの頃は普段はパンで、週に一回、米飯給食というものがあった。日本人なのに、どうしてパンが普通で、米飯給食が特別なの?と、米は家にあるのに…。
下:僕が難しいと思うことのひとつは、圧力との摩擦。議論に出ている“気づく”ということに繋がりますが、近代化以降の教育のような圧力を受け、そこに疑問を抱き、その摩擦で新たに自己が生まれ変わるという在り方もある。その摩擦が、人間としての深みや面白みを生んでいるとも思う。もしも、この摩擦がなくなってしまうと、それはそれでどうなのかな?と思うこともある。
Y:摩擦はなくならないですよ。僕ら人と人が交わる中には、必ず摩擦が起きる。だから、僕らは成立している。結局僕らは、他人というものがいないと生きていけないですし、どんな間柄であれ、その他人との関係性の中に摩擦が生まれる。だから、新しいアイデアが生まれたり、思考が閃いたりするわけです。人がいる限り、摩擦はなくならない。
E:僕は下川さんやSさんは、あまり摩擦を受けていないように感じます。20代前半の世代は、携帯やデジタル的なものが、生活の中心であると想像していましたが、実際おふたりの話を聞くと、SNSをやっていなかったり、そういうものにあまり触れていないことがわかった。デジタルとの摩擦を受けていないことは、意外でしたね。
Y:僕はこれから、デジタルとは違う方向に自分の生活を持っていこうと考えていますね。先ほど自分で言いましたが、僕らは経験させてもらうために生まれてきたと考えているので、実験するような感覚です。実験的な感覚で生きると、すごく楽しいですよ。とにかく、トライアンドエラーで、行動していく、試していくということをしないと、何も変わらない。やりたいと思えばやってみて、失敗したとしても、戻れるというのが今の時代。
栗:やらない後悔より、やった後悔。
下:僕も自分の肉体を使った実験だ、と思って生きています。