2023/02/24 23:00
-苦悩の経験から生まれ変わる自分。“気づき”を積極的に待つ。
「己れの尾を噛む蛇、ウロボロス」-
F:Yさんや栗岩さんがおっしゃられたような、苦しい経験、というのは早いほうがいいのでしょうか?
Y:僕は、そうは思わないですね。生きている間にそれに気づける、ということが何よりも大きいことだと僕は思っています。栗岩さんも僕も、ある意味、死にかけたわけです。そこから、新しく生まれ変わる、というようなことが起こる。それに気づける人は少ないと思いますね。早い、遅い、はあまり関係ないかもしれないです。
S:僕は下川さんの学生時代からの友人で、福祉の仕事をしながら、個人的に小説を書いています。その中で、本を読むタイミングも、これを読むのは今だったよな、という感覚を覚えることばかり。それこそ、先ほどから議論に出ている“気づく”ということですが、早いほうがいい、遅いほうがいいとかではなくて、タイミングは自分では選べない。たまたま今だった、けれども、絶対今だった、というような不思議なタイミング…。僕はついこの前、芥川龍之介の「河童」と「或る阿呆の一生」を読んで、気持ち悪くなるくらい衝撃を受けてしまいましたね。それが僕の中でひとつ、或るタイミング、だったのかもしれません。
下:僕とSさんはよく2人で話をしますが、読む本も、自分で選んではいるけれども、読みたいから読むというよりは、読まなければいけないから読む、という感覚が強くある。ついこの前の年末にも、ニーチェの「ツァラトゥストラ」を2人で同じタイミングで読んで、今だったな、という話をしましたが、少し前だったら分からなかったよな、とも思いましたね。
S:僕は、出会うべくして出会った本には、文章に線を引いたり、ページの右上を折って、本が分厚く、真っ黒になってしまうくらいまで読むんです。太宰治の「斜陽」も、大学一年生くらいの時に買ったのが家の本棚にあったので、久しぶりに読み返したら、どこにも線が引かれていなくて、ページも折られていなくて、「あ、読めていなかったんだな」というようなことも感じたりしますね。
栗:実は自分も、太宰治と芥川龍之介には、どつぼにはまったことがある。あとは、15歳で夏目漱石にはまり、「こころ」を、Sさんのように分厚く真っ黒になるまで読んだ。“死”をずっと考えていた。死にたい、ではなくて、死にざま、をね。今も、どう死ぬか、ということしか考えていないから、夏目漱石の本なんて最たるものじゃない? 歳を重ねるという意味では、本に関して自分のお勧めは、例えば20代で読んだ本を、30代、40代、50代、と世代ごとにもう一度読むと面白いよ、それは間違いない、自分の経験値。
Y:僕は本を読みますけど、文学系のものは読まないんです。読みたいとは思うが、なぜか手に取らない。目の前に自分の求めているものがくる、という人間のラス機能というものがありますけれども、何かに興味を持つと、今まで見えていなくても、それが勝手にやってくるように感じるのが、引き寄せと呼ばれている。それは、引き寄せ、でもなんでもなくて、当然のこと。面白いことに、今になって、10年前に買っていた本が、実は自分にとって重要なものだった、既に買っていたということがある。まさに、その“タイミング”が、10年後だったりするわけです。「あ、今日読むために買っていたんだ」みたいな。それも、歳を重ねることの楽しみのひとつ。けれども、最近は、自分でも気づいていないような原因、そこから出てくる予想外の結果、その因果が、現実化するのがはやいですよね。僕らの昭和の世代は、土着的な、土地を持っていることに価値がある、“地の時代”だった。そこから、コロナくらいのタイミングで、“風の時代”に変わったと言われていて、現実化のスピードが早くなっている。だから、昔だと10年かかっていたものがすぐにやってきたりなど、より面白い時代になると思う。
栗:“気づく”、“気づかない”という話は、すごくいいポイントだと思う。今は、情報という意味では、勝手にものすごく叩きつけられて、刷り込まれている。その中から、どうやって自分の秤を掴めるかというのは、ひとつ、ひとつ、自分なりに経験を重ねていくしかないと思っている。よく自分が言う、全人類に共通の尺という時間、ロンドン塔の時計の、あの時間の尺ではない時間軸、というのをそれぞれ意識しながら生きていくと、楽しいんじゃない?と思う。
F:自分が、歳の重ね方について大事にしている考え方は、自分の基準値をつくること。例えば、お酒の話でも、栗岩さんのつくるジンもあれば、他のお店のジンもある。お酒に限らず、比較できるようになることで、自分の中にブレない基準ができる。これは、経験を重ねないと難しいことだと思うし、すなわち、歳を重ねるということに繋がっていくこと、だとも思いますね。
Y:僕らがこの世に生まれてきているということは、おそらく、色んなことを経験させてもらうためだと思うんですよ。今の時代も、先ほどから議論に出ている情報という言葉がありますけれども、そろそろ情報に振り回されるのはやめにしようよ、というような時代の流れも感じている。僕もセミナーにお金を使ってしまったり、情報に振り回された経験をしたから言えますけれども、今は、インディアンのような原住民について書かれた本を読む、ことに辿り着きましたから。人は、生まれたそのままでいいだろうと、何もいらないだろう、と。
下:情報に振り回されないために大事なことは何でしょうか?
Y:先ほどSさんがおっしゃられた、「芥川龍之介を読んで気持ち悪くなるくらい衝撃を受ける」といった、自分の中の体感をどれだけ信じられるか、だと思う。栗岩さんも、“違和感”という言葉をよくお使いになりますよね。僕がバーテンダーの修行時代に学んだことは、その違和感をキャッチするということ。例えば、サービスする中で、灰皿が溜まっているとか、グラスが空いているとか、お客さんがトイレに行きたそうだな、とか。そこの違和感をキャッチできるか、という訓練を受けた。僕は高知県の田舎で育ったので、川で魚を捕まえたり、山に登ったりしていたので、自然の中での違和感をキャッチすることは得意だったんです。その自分の感覚を、飲食の世界に落とし込むまでに少し時間がかかってしまったな、とは思いますね。最初は、「お前はこの世界に向いていない」と、散々言われてきましたから。けれども、“違和感をキャッチする”ということを意識しながら、自分の幼少の時の体験を飲食の世界に落とし込むことで、自分なりのスタイルができた。これを身につけることができると、今度は、一番端のお客さんの灰皿まで見えるようになるとか、揺るがない自信、みたいなものも生まれてくるわけです。
栗:バーテンダーの仕事は、視野が180度以上になるんですよ。
Y:栗岩さんと一緒にカウンターに立たせていただく機会があった時も、阿吽の呼吸のように、横からすっとボトルが出てきたりする。バーテンダーとは言っても、栗岩さんと僕とでは、通ってきた畑が全く違うけれども、感覚、という人間の自然的な部分は、もしかするとどんな分野の仕事においても何か共通するものがあるのかもしれない。