2023/02/07 10:00

立春を迎えた。

いつからだろう、この日を大切に思うようになったのは。

と、自分自身に問いかけている。

 

季節の移ろいやその言葉を意識するようになったのは30代前半。

仕事で欧米諸国を訪れ、外から見た日本の良さを見直した。

そのことがきっかけのひとつだった。

 

季節の移ろいを基に暦を定め、生活の規範とする二十四節気。

さらに三つに区切る七十二候、月齢、潮位、

これらを生活のなかで意識するようになり、

風の流れを感じ、空の色、雲の形を見上げ、

路傍の草花を探すことが散歩の楽しみにもなっている。

 

そんな暦の上での春がはじまった。

進級、進学、入学、卒業、学業では目前に控えるこの時節、

新しい学びがたくさん生まれる時のように思う。

 

先日、新しい学びの場を始めたが、次のテーマは「過去問」。

https://www.kuriiwastyle.com/blog/2023/01/21/174512

 

 

「過去問(かこもん)」といえば、受験生であれば「過去の問題集」。

つまり、過去をなぞること、振り返ること。

でも今回の言葉には、

いつか、あの時、あの場面を今の自分に問いかけること。

つまり、人生をやり直したい、

あの日に帰りたい、という自分に対する問いかけのことも

含まれるだろうと考えている。

 

その意味での、私の「過去問」。

それは、今、小学校高学年のあの時。

 

作文の宿題があった。

優れた作文はラジオ番組で朗読されるという

何かのコンクール、

その選考対象作品に提出する

代表作を決めるための作文の宿題。

テーマは「親」。

書いた内容は親の死に絡む

山岳遭難事故の話と記憶している。

 

小学生が死を題材に、ましてや親の死について書くこと自体、

求められていたであろう内容には的外れだと、今では思うが、

あの頃は漠然とした不安が興味深い事柄だったように思う。

 

何故かは覚えていないが、

家族がそれを読むことになった。

反対され叱責され、そして書き直された。

家族が書いた、求められる優等生らしい「僕」の作文。

迫る期限に追われ、罪悪感と後ろめたさだけを残して提出した。

それからというもの、作文が苦手になり、嫌いになり、

成績が下がり、好きだった図書館にも通わなくなった。

足を踏み入れると本に笑われているような気分にもなった。

 

悶々とした月日が惰性で流れ、進学した中学時代、

嫌いになっていた国語の授業で夏目漱石に出会った。

問いかけるような、その引き込まれる内容に読書熱が再燃した。

現代文、古文、漢文、英文、歴史、哲学、思想、

人々に語られてきた「言葉」が好きになっていった。

 

あの時、否定されて消えた「言葉」に対する想い、

決して消えない罪悪感と後ろめたさと後悔。

あの「僕」を見返してやりたいと思考を広め深めた日々。

 

今ではこうして、言葉を紡ぎ発信することも生業としている。

きっと、あの時のことがなければ、こうなることもなく、

ただただ惰性で過ごし、流れ去っていったように思える。

自分にとっての大切な分岐点となったあの時の「僕」。

これが私の「過去問」のひとつ。

 

「問」は「悶」でも良いかも、

などと思いながら今日も散歩。

あ、そうそう書き直された「僕」の作文の内容は忘れました。

覚えているのは、ラジオから流れた「僕」の名前だけです。

 

あ、この文章は自分で書いていますよ、もちろん。

 

令和五年 春待つ草花愛でる散歩の最中に

栗岩稔