2022/03/15 10:00

自身の酒場を閉めて二年目の春
酒場の記憶を残した写真集の出版とその記念展を終えた
とても大きな区切りであり、ケジメになった
今、ここで、最初で最後に
渡邉かをるさんのことを書き残しておきたい
たくさん、たくさんあるけれど
ようやく正面から向き合えるようになった今
ここに記録として書けるだけを記憶として

渡邉かをる 昭和18107日生まれ、東京生まれ、東京育ち
「酒番」の名付け親、鎌倉の親父

出会いは鎌倉だった

バーテンダーという仕事の高い価値を追い求めて

銀座の店で学んでいた頃
空いた時間と自分の隙間を埋めるために

鎌倉駅前の老舗コーヒー屋でも働いていた
老年での珈琲屋のオヤジを想像しながら学んでいた
休まなかった、忙しかった、きつかった、でも楽しんだ


ある日、そのコーヒー屋の主のところに
由比ヶ浜通りの昭和初期の建築の物件が空くという情報が入った
旧鎌倉興業銀行鎌倉支店由比ヶ浜出張所だった
昭和4年建造の小さな古いビル

 

コーヒー屋の主人はそのビルの使い道を

友人であるアートディレクターの渡邉かをるさんに相談したところ

バーにすることが決まった

「鎌倉市内には良いバーがない」

それが理由だった


渡邉かをるって、誰?

男?女?ぐらいの浅はかな知識で

私は初めて顔を合わせることになった

 

銀座でバーテンダーとして働いていることを話すと、そのまま決まった

今にして思えば選択肢は他にたくさんあったはずなのに私が選ばれた
開店までのわずかな期間の刺激的で躍動的な日々がはじまった
メニュー構成、酒の種類、酒の肴、営業時間、そもそも店名は?

すべてが決めることだらけだった
不動産屋とのやり取り、家賃交渉、契約書の受け渡しまで
初めて経験することの中で多くを学んだ

開店準備の最中、かをるさんが思う酒場を学ぶために東京に赴いた
待ち合わせは港区青山、中国茶専門店に最低限失礼のない服装でお邪魔した
「お、来たか、タバコは吸うのかい?」
「はい、結構吸います」
「じゃ、これ」
と渡された太い葉巻PARTAGAS SERIE D4
「あの、どうすれば
「ゆっくり吸えば良いんですよ、ゆっくり」
と、旨そうに煙を燻らす
映画の中でしか見たことがない人生初の葉巻を手に
戸惑うばかりの青山を後にして
ホテルオークラ、バーハイランダーの決まりの席で
キリンラガービールとクラブハウスサンドイッチ
その後、メインバーオーキッドのいつもの席で
マティーニを旨そうに飲み干し
ジンリッキーを楽しむ
もちろん、同じものを口にし、同じ空気を吸い
時がゆったり流れる
その後、最上階のラウンジに向かった夕暮れ時
バーワゴンを押しながら後の兄貴分となるバーテンダーが挨拶をする
「こちらでマンハッタンでもいかがですか?」
「お、頼むよ」
美しい手さばきで生み出されたマンハッタンが東京の夕陽に映える
最低限の会話と程よく短くなった葉巻の香りが漂う美しい時間
人生で初めて美味しいと思ったマンハッタン
自分もこれを作れるようになりたいと思ったマンハッタン
バーテンダーという仕事を生業にする決心をしたマンハッタン
葉巻を燻らし、静かに隣に佇み、酒を飲む
この人の店をやり遂げたいと思ったマンハッタン

それから6軒の酒場を巡ってひと言
「どう、良いところ、悪いところ、わかったかい?」
「あ、はい、がんばります」
と的外れな答えで終わる六本木通りの午前3
気付くと酷く酔っていた
気付くと横須賀駅で迎えた早春の朝だった

鎌倉THE BANK がはじまった2001429
マティーニだけでジン3
たくさんの人が訪れた中で
「お、栗ちゃんじゃないか、どうした?」
と懐かしい声
聞けば、かをるさんとはVAN JACKET からの長い付き合いだというその人
20
代の頃にアメリカ製ビジネスバッグのブランドを私に託してくれた張本人
人とのつながりや縁を感じながらも、とにかく忙しかった
何をしていたかを今でも思い出せないほどのはじまりのTHE BANK だった

THE BANK 
の日々
平日は店主不在の酒場を預かる酒番として店を切り盛り
週末は東京から戻る店主の知人、友人が
日本はもとより世界中から訪れる店を切り盛り
渡邉かをるの酒場THE BANK その看板を必死で守った
そのスタイル、酒、酒場の景色、酒場を磨き学んだ
アンティークグラスの知識を学び、相性を学び、古い雑貨を学んだ
中でも酒の味、世界中の酒場の本物の酒を知る人の酒場
その酒番が作る酒が美味しくて当たり前で
妥協が許される訳がなく、もちろん厳しかった

ウイスキーソーダは半分残り
マティーニは一口で止める
ジンリッキーは頼まれもせず
マンハッタンはもってのほか
そんな日々が続いた
平日の夜の閉店後の毎日の練習
水割りの作り方、氷に対する向き合い方と想い、ソーダの扱い
グラスに対する眼、すべてを学び修得した、と思った
週末は店主と酒を酌み交わし、言葉少なにたくさん学んだ
もちろん腹が立つこと、憎むこと、悩むこと
諦めることもあったが、しがみついた

ある日の週末、いつものように

グレースケリーの写真が入った1950年代初頭の

鏡面フレームを磨いていると
「君はそれ、好きかい?」
「そうですね、美しいですね」
「それ、君に差し上げますよ、そろそろ誕生日だろ」
「えっ、あ、はい、ありがとうございます」
無論誕生日のことなど伝えるはずもなく
気にすることもないと思っていた
私の酒場の中心になるものが決まった、その時
酒場を閉めた今も手元で、時々磨きながら、大切に

ようやく酒場が落ち着いたある日
両親がかをるさんに挨拶をしに訪ねてくることになった

もちろん店の主である、かをるさんには
前もって来訪のことを伝えていたものの
当日の朝、店に挨拶に立ち寄ると

かをるさんはいつもの鎌倉のスタイルだった
ダンガリーシャツにチノパンに黒のローファー
手にはいつもの葉巻PARTAGAS SERIE D4
「すぐに終わって失礼しますので、すみません、朝から」
「あぁ、予定通りかい?」
といつもの会話でいつもの朝
前夜の片付けと掃除を終えて

定休日を迎える月曜日の朝の静かな酒場


両親を伴って戻ると、音楽と灯りがかすかに洩れだし
火をつけたばかりの葉巻の香りが流れ出すことに気がつく
鍵をかけたはずの正面から入ってみるとそこには
ネイビーソリッドスーツと白いシャツにドレスシューズ
その手にはBOLIVER CHURCILLの葉巻、もちろん酒場はいつもの景色
驚きのあまり、きちんと紹介することすら出来ずに立ち尽くす傍らで
挨拶を始める両親に深々と頭を下げる店の主
格好良いと思った
礼を以て人を迎える姿に感動した
男の服はファッションでも何でもなく
そのスタイルで体現する大切なモノだと思った
あんな風になりたいと思ったし、この人の下で働くことに興奮し感謝した
様々な感情に揺れる日々は、この時からすべて消え失せた
酒番として酒場のスタイルを守り貫き通すことを決めた

しばらくして
「君はこの本を読みなさい、上田市の出身だろ」
と渡された 池波正太郎著/男の作法
その奥深さを感じ読み更けり、もちろん今でも愛蔵書

鎌倉THE BANK
当時は月に1000人のお目にかかり、1000杯の酒を作った
お世話になった期間で40000回も酒に向き合い
人に向き合い、店の主に向き合い、多くを学んだ
モノの見方、目線、考え方、男として人としての振る舞いと所作
映画、音楽、本、美しいモノ、かわいいモノ、すべてを学んだ
あの3年間がなければ今はないと言い切れる
あの路地裏に酒場があったら良いな、などと考えることすらない
大人の遊び場、大人の社交場としての酒場の意義を問うこともない
酒、服、音楽、映画、本、モノ、すべてが同じだと思えることもない
残念ながら、それを自身の手で表現したい、やり遂げたいと
心の底から思えたのもあの場にいたからに間違いなく
大きな理想を描くことが出来たことも間違いがない

30
代半ばでクロージングオーダーサロンを共にした男との出会い
40
代で務めたフランスの老舗ショコラティエ、貴金属製品の店それぞれで
顧客向け、PR向けイベントのきっかけをくれた女性との出会い
50
代で務めたGinza Sony Park Bar Morita の仕事のはじまり
無論、木挽町路地裏の酒場bar sowhat
すべてが鎌倉THE BANK での縁からはじまった
あの仕事に対する評価と人のつながり、必然のような出会い
不思議なはじまりでもあり、おわりでもあったと思う

銀座で仕事を始めることを決め
退職の話しをするために東京に行った
いつものバーハイランダーのいつもの席で
「栗岩君ね、人は死ぬまで勉強ですよ、勉強」
と、言われた言葉は今でも覚えている
今では、それが当たり前と思えるようになった、と思う

鎌倉を去ってしばらくした時
次に向かうための挨拶と筋を通すために会いに行った
散々飲んで食って話した深夜2時の恵比寿の酒場
左手に葉巻、右手にショットグラスの紺無地スーツの男が二人
「お、馴染んできたね、でもね、やっぱり勉強ですよ、勉強」
深く酔った心地好い夜、改めて感謝した

鎌倉THE BANK のことに思いを馳せることが多い昨今
Dinah Washington の名曲「What Difference A Day Makes」を流している
あの夏の日のカウンターを思い出す 
https://youtu.be/OmBxVfQTuvI
子供の頃に憧れていたCM のバックで使われていた音楽の話しの最中
「そのCM 、作ったの、私ですよ」
とさりげなく言われた
あまりにもスケールの違う話しに改めて
この人の下で働くことの意義を感じた
ちなみに、この曲の邦題は「縁は異なもの」

人一倍つながりを大切にして、人一倍寂しがり屋で
でも格好良くて、格好良さを知っていて、体現していた 

THE BANK 
元店主、渡邉かをるさんへ
THE BANK 
元酒番、栗岩稔より改めて
ありがとうございます
二度と面と向かって言えないけれど

この春、盛況に終えたbar sowhat 2011-2021 
期間中にいつも思うことがあった

自身の酒場の記憶が残ることに感謝しながらも
かをるさんが亡くなった時にやるべきことが回顧写真展で
当時は何も出来ず、誰も何も出来ず、悲しみに暮れていた
モノは散らばり、人も散らばり、収まるところで収まっていた

今、こうして出来ているのは
あの頃いただいたご縁でここまで出来ました、と
「まぁまぁだな」
といつかの誉め言葉を言われることもなく
聞くことも出来ず、二度と会えない今
全て遅すぎましたが、ここまで出来ました

路地裏の酒場でマティーニを二口で飲んだ時のことは忘れません
夕暮れのマンハッタンを飲んでいるあの路地裏の景色を忘れません

今、五十を越えました、もっと旨いマティーニを作ります、きっと

今、最初で最後にかをるさんのことを書いています
もう二度と書くことはありませんのでご容赦ください

かをるさんのスタイルは私が少しだけ受け継ぎます、伝えていきます
酒場を通して、私なりに

ありがとうございました。
「お、またな」はもうないけれど

渡邉かをる 平成273月没

 

令和四年三月 あの日を前に

今でも酒番 栗岩稔